呂尚
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呂尚

初代公

王朝斉
在位期間前1021年頃? - 前1000年
都城営丘
姓・諱姜尚、呂尚
字子牙、牙
諡号太公、武成王[1]
廟号文武廟
生年不詳
没年不詳

呂 尚(りょ しょう、Lu Shang)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・軍師丁公邑姜の父、後にの始祖。

は子牙[2]もしくは牙[3]は尚とされる[4]。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる[4]は太公。斉太公・姜太公の名でも呼ばれる。

但しかれの名・字には諸説が有り、例えば貝塚茂樹は『詩経』大明編より、字を尚父とし、尚は「尚父」の略称だと指摘している[4]。また、小竹史記では、諡を太公、名を望、字を尚としている[5]。実際に『荀子』『韓詩外伝』『説苑』『新序』『論衡』などいくつかの文献には「呂望」と記す例が散見する[6]。また、当時の金文では「姜子牙」で現れ、呂尚、呂望などとは謂われない。

一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる[7]
生涯

歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である[4]代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の金文に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されてこなかった[8]

史記』斉太公世家では、東シナ海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業を補佐したとされている[4][9]。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市臥竜区)や申(現在の河南省南陽市宛城区)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという[4][3]。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する[2][3]

また周に仕える以前は帝辛(紂王)に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌(後の文王)のもとに身を寄せたと伝わる[9]。周の軍師として西伯昌の子の姫発(後の武王)を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ[10]。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省?博市臨?区)を中心とする斉の地に封ぜられる[11]

営丘に赴任後、呂尚は隣接する?の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという[9]。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した[4]。また、斉は成王から黄河穆陵無棣に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた[12]。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという[12]

しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした[13]、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される[4]。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある[4][14]

春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った[15]。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は代に重要視され、731年玄宗によって呂尚と前漢張良を祀る太公廟が各地に建立された[16]760年粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり[16]、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。また、古今の名将十人が唐代の史館により選ばれ、太公望と共に祀られた(武廟十哲)。782年徳宗の命により唐代の史館が新たに六十四人の名将を選出し、武成王廟に合祀された(武廟六十四将)。


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