懿武帝 呂光
後涼
初代天王
王朝後涼
在位期間386年 - 399年
都城姑臧
姓・諱呂光
字世明
諡号懿武皇帝
廟号太祖
生年建武4年(338年)
没年承康元年(399年)
父呂婆楼
后妃石皇后
陵墓高陵
年号太安 : 386年 - 389年
麟嘉 : 389年 - 396年
龍飛 : 396年 - 399年
承康 : 399年
呂 光(りょ こう)は、五胡十六国時代後涼の創始者。字は世明。略陽郡(現在の甘粛省天水市)を本貫とする?人であり、出生地は枋頭(現在の河南省鶴壁市浚県の南東)[1]。前秦の太尉呂婆楼の子。
前秦の勇将として数多の武功を挙げ、西域征伐にも赴いて西域全域を支配下に治めた。だが、その間に前秦は?水の戦いで大敗を喫して大混乱に陥っており、西域より帰還した呂光は混乱に乗じて涼州全域を支配下に治め、後涼を建国した。だが、南涼や北涼の独立を始め、相次ぐ反乱勃発により国の政情は安定せず、終生反乱鎮圧に明け暮れる事となった。中国では呂布と併称される呂氏の猛将として、呂氏の族譜に掲載されることが多い。 父の呂婆楼は前秦建国以来の重臣であり、苻堅の代には太尉にまで昇った。 呂光は始め美陽(現在の陝西省咸陽市武功県)県令に任じられた。その優れた管治により、漢人・胡人問わず心から慕われたという。 やがて中央に復帰し、鷹揚将軍に任じられた。 358年2月、苻堅が并州一帯を領有していた張平討伐に乗り出すと、呂光もまたこれに従軍した。3月、前秦軍は銅壁(汾水近くの銅川に沿って築かれた砦)まで軍を進めると、張平は養子の張?に迎撃を命じた。張?は出撃すると大声を張り上げながら4・5回に渡って前秦の兵陣へ突撃し、大いに荒らし回った。これを見た苻堅はその武勇に惚れ込み、諸将へ彼を生け捕りにするよう命じ、成功した者には褒賞を約束した。これを受け、呂光は自ら出撃して張?に斬りかかって傷を負わせ、捕縛する事に成功した。張?が捕らえられた事により張平軍は崩壊し、張平もまた戦意喪失して苻堅に降伏した。 この戦功により、呂光の威名は大いに轟いた。やがて寧朔将軍に任じられた。
生涯
前秦の勇将
美陽を管治
張?を捕縛
苻双・苻武らの反乱鎮圧・陝城を守る魏公苻?・安定を守る燕公苻武
同月、苻堅の命により、呂光は武衛将軍王鑒・将軍郭将・??らと共に3万を率いて苻双・苻武の討伐に向かい、左衛将軍苻雅・左禁将軍竇衝が羽林騎兵7千を率いて後続した。4月、苻双・苻武は楊成世らを破った余勢を駆り、苟興を軍の前鋒として?麋(現在の陝西省宝鶏市千陽県)まで進出した。王鑒は速戦に持ち込もうと考えていたが、呂光は「苟興は楊成世を破った事で、その気勢は次第に鋭くなっている。ここは持重し、敵の疲弊を待つべきであろう。興は勝ちに乗じて軽々しく軍を進めているが、兵糧が尽きれば必ずや後退する。その時にこれを討てば、破る事が出来よう」と答え、持久戦を選択した。20日余りして苟興軍が後退すると、諸将はどう動くべきか悩んでいたが、呂光は「奴らの奸計を推し量るに、まず?麋を攻め、これを得れば城に拠って進路を遮断し、資儲(食糧・物資)を充足させる考えであったのだろう。これは国の利ではなく、もし興が城を攻めようものなら、速かに軍を進めて救援に赴くべきであった。だが、こうして奔走しているのであれば、奴の兵糧は既に尽きているという事だ。これを滅ぼすのは容易い」と述べると、王鑒もまたこの考えに同意した。こうして呂光らは追撃を掛けて苟興軍を攻撃し、これを撃破した。さらには苻双・苻武の本隊もまた大破し、1万5千余りを討ち取るか捕虜とした。苻武は安定を放棄し、苻双と共に上?へ退却すると、呂光らはさらに上?へ進撃した。
7月、呂光らは上?を陥落させ、苻双・苻武を捕らえた。9月、輔国将軍王猛・建節将軍ケ羌率いる別動隊が蒲坂を攻略し、苻柳を捕らえた。呂光らは前将軍楊安・広武将軍張?・建節将軍ケ羌と合流すると、共に苻?の守る陝城へ侵攻した。12月、陝城を攻略し、苻?を捕らえて長安へ送った。 371年5月、苻堅は前燕征伐を大々的に敢行すると、輔国将軍王猛が総大将となって6万の兵を率いて出撃し、呂光もまたこれに従軍した。前秦軍は要地である壷関・晋陽を瞬く間に陥落させ、前燕の総大将慕容評率いる30万の軍も?川において撃破し、11月には首都の?を陥落させた。 呂光は功績により都亭侯に封じられた。 やがて北海公苻重 378年9月、苻重は突如として洛陽ごと苻堅に反旗を翻した。この報告を聞いた苻堅は「長史呂光は忠正(忠義に厚く正直である事)である。必ずやこれに同調せぬだろう」と述べ、すぐさま呂光の下へ使者を送って苻重捕縛を命じた。果たして呂光はこの反乱に加担せず、苻堅の命に従って苻重を捕らえ、檻車をもって長安へ送った。苻堅は苻重を罪には問わず、公の爵位のまま邸宅に謹慎させた。 やがて呂光は太子右率に任じられ、中央に復帰した。苻堅からは甚だ敬重されたという。 379年3月、蜀人の李烏 苻堅の命により、呂光は破虜将軍に任じられ、李烏討伐を命じられた。益州へ進撃すると、李烏らを撃破して乱を平定した。 やがて歩兵校尉に任じられた。 380年1月、苻堅は苻重の謹慎を解き、鎮北大将軍に任じて薊を鎮守させた。3月、龍城を鎮守していた行唐公苻洛(苻重の弟)は大都督・大将軍・秦王を自称し、前秦に反旗を翻した。4月、苻洛は7万の兵を率いて龍城を出発し、苻重もまた薊城の全軍10万を挙げて苻洛に呼応し、中山に駐屯した。苻洛らの反乱を聞いた苻堅は、群臣を招集して対応策を議論した。呂光は進み出て「行唐公は至親(近しい親族)であるのに反逆を為しました。これは天下が憎む所です。願わくば臣に歩騎5万を与えてくだされば、これを平らげて見せます」と進言すると、苻堅は「重・洛の兄弟は東北の一隅に拠り、兵も物資も備わっており、軽々しく当たるべきではない」と答えた。これに呂光は「彼の衆は凶威に迫られて無理やり従っているだけであり、一時的に蟻が集まっているのと変わりありません。もし大軍をもって臨めば、必ずやその勢いは瓦解します。憂うには足りますまい」と返した。 苻堅の命により、呂光は左将軍竇衝と共に4万の兵を率いて討伐に赴いた。5月、呂光らは中山において苻洛率いる主力軍と交戦し、これを大いに打ち破ると、苻洛と将軍蘭殊 功績により、呂光は驍騎将軍に任じられた。 苻堅が華北をほぼ完全に平定すると、?善・車師・大宛・粛慎・天竺・康居・于?など、東夷や西域に位置する凡そ62もの国家が相次いで前秦へ入貢するようになった。 382年9月、車師前部王弥?
前燕征伐
苻重を捕縛
李烏撃破
苻重・苻洛の反乱鎮圧
西域征伐へ
長安を出立
383年1月、呂光が長安を出発すると、苻堅は建章宮まで見送って「西戎は荒俗であり、礼義の邦(国家)ではない。羈縻の道(羈縻政策)とは、服従すれば赦す事にある。これにより中国の威を示し、王化の法において導く事に繋がるのだ。武力を振りかざしたり、過ぎたる残掠をしてはならぬぞ」と戒めた。また、?善王休密?を使持節・散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍に、車師前部王弥?を使持節・平西将軍・西域都護に任じ、その国の兵を率いさせ、呂光の嚮導(行軍の案内役)とした。 呂光は高昌まで到達した所で、苻堅が東晋征伐の大遠征軍を興したという報告を聞いた。情勢が変わった事から、呂光は進軍を一旦止めて次の命を待つべきだと考えた。だが、杜進は「節下(呂光)は金方(西方)を任されているのです。速やかに機に赴くべきです。まだ完遂していないのに、どうして留まっていられましょうか!」と進言した。呂光はこれに同意して進軍を再開し、流沙を越えて三百里余りを進撃した。そして遂に焉耆まで到達すると、焉耆王龍熙
西域平定
同年12月、さらに亀茲まで進出したが、亀茲王白純は降伏を拒み、徹底抗戦の構えを見せた。そこで呂光は城南に布陣すると、五里毎に陣営を一つ設置し、溝を深く塁を高くして守りを固めた。また、広く疑兵を設け、木に甲を着せて兵士に見せかけ、塁の上に並べた。これを見た白純は外に配していた兵を城内へ戻して籠城し、傘下の附庸や侯王にも各々の城を固守するよう命じた。