本項「吹奏楽の歴史」では、世界における吹奏楽の歴史について説明する。
『新版吹奏楽講座』によれば、吹奏楽とは、「管楽器と打楽器のみの合奏、すなわち弦のないオーケストラである」と規定される[1]。「吹奏楽」という日本語は、ドイツ語のブラースムジーク Blasmusik (Blasは「吹く」の意)からの訳語とも考えられており[2]、日本では一般に「ウインド・オーケストラ」Wind Orchestra や、「ブラスバンド」Brass band と称されることも多い。ただし、ブラスバンドは明らかに英語真鍮(brass)を主素材とする金管楽器と打楽器によって編成される楽団(英:brass band)の片仮名書きであって、誤訳と概念の混同が見られる[2][3]。吹奏楽のなかには、狭義のブラスバンド(金管バンド)のほか、シンフォニック・バンド、コンサート・バンド、ウインド・アンサンブル、ウィンド・オーケストラ、マーチング・バンドなど多種多様な形態があり、その発達のあり方や歴史的変遷は、国や地域により異なる[3]。
なお、上述の定義にしたがえば、日本の雅楽も篳篥(ひちりき)や笙(しょう)、横笛が中心となっており、催馬楽や管絃をのぞけば吹奏楽の一形態ととらえることが可能である[注釈 1]。しかし、ここでは一般に日本で「ブラスバンド」「ブラバン」と称せられる、洋楽のなかの一演奏形態ないし一ジャンルとしての吹奏楽について、その歴史的変遷を叙述する。
原始・古代オーリニャック文化期出土の笛(レプリカ)帝政ローマ時代の楽士を描いたモザイク(Zliten mosaic):リビアのズリテン(en)出土。イタリア人考古学者が1913年に発見。現在、トリポリのジャマヒリーヤ博物館に所蔵されている。
管楽器の歴史は古く、人類の歴史がはじまって以来、骨・角・石・草木・粘土などさまざまな素材を用いて製作されている[注釈 2]。「ホーレ・フェルスのヴィーナス」で知られるドイツのホーレ・フェルス洞窟からは、現在よりおよそ3万5000年も前のオーリニャック文化期に属する象牙やハゲワシの骨でつくられた笛が見つかっている[4][5]。日本では縄文時代の遺跡から土笛が多数見つかっており、太鼓が存在していた可能性もある[注釈 3]。世界的にみれば、太鼓の起源はラトル(鳴子)とともに古く、古代メソポタミアでは紀元前2500年頃のシュメールのレリーフ(浮彫彫刻)に描かれており、打楽器の起源の古さを物語る[6][注釈 4]。また、楔形文字で記録されたところによれば、この頃のメソポタミアでは既に五音階が存在したと考えられている[7]。
古代エジプトでは、エジプト新王国の時代(紀元前16世紀-紀元前11世紀)の壁画にしばしばラッパの吹奏が描かれており、「黄金のマスク」で有名な紀元前14世紀の王(ファラオ)、ツタンカーメンの墓からは直管型のラッパが出土している[注釈 5]。新王国時代の壁画に描かれたエジプトには、管楽器として今日のフルート、クラリネット、トランペットに相当する楽器、弦楽器にはハープやリュートなど、打楽器には拍子木やカスタネット状のもの、シストラム(英語版)、シンバル、がらがら(ラトル)、太鼓、タンバリンに相当するものなどがあった[7][8]。このような管楽器は信号または儀式での音響効果をにない、軍隊でも使用されたと考えられている[8][9]。また、古代イスラエルのダビデやソロモンの宮廷では、イスラエル音楽が栄え、太鼓やシンバルによる舞踏がなされた。なお、イスラエル王国の時代には、人びとはラッパやショファルと呼ばれた角笛、オーボエに似たハリルなどの楽器を用いて音楽を楽しんでいたことが知られている[7]。
古代ローマにおいても、大きな行事や重要な儀式の場では、トゥーバ Tuba、ブッキナ(英語版) Buccina [注釈 6]、コルヌ Cornu [10] など、現在の金管楽器の前身となるような様々なラッパがつくられて軍楽がなされた[9]。共和政ローマの時代の音楽はギリシャや東方に影響をあたえたといわれ[7]、ガイウス・ユリウス・カエサルの著述した『ガリア戦記』にも、カエサル自身、合戦の際にラッパを吹かせていたことを記録している。また、アウグストゥスより始まったローマ帝国の軍楽隊も、管楽器と打楽器によって編成されていた[9]。
中世・近世吹奏楽のルーツとなったトルコのメヘテルハーネ(オスマン帝国時代の絵画)インドのラジャスタン州に伝わったナッカーラ
中世ヨーロッパにおいてはキリスト教音楽による声楽が中心であったが、世俗音楽では、さかんにリコーダーが用いられていた[7]。11世紀以降、ヨーロッパでは高音から低音まで揃った木管楽器ファイフ(英語版)やバグパイプ、ドラムによる楽団が現れている[7]。
1095年のクレルモン教会会議以降、ヨーロッパのキリスト教世界は数次にわたってイスラーム世界に十字軍を派遣したが、ここで彼らはトルコ人の軍楽と遭遇する。これが、こんにちの吹奏楽の起源といわれている[11]。大きな音の出る二枚管のズルナはオーボエやファゴットの祖型となり、長い管をもつ金管のボル Boru はトランペットの原型となった。馬の胴の両脇につり下げて演奏した鍋型の太鼓ナッカーラ Naqquara(現在のティンパニ)やクヴルク Kuvruk(現在の大太鼓)、両面太鼓のダウル、ジル Zill(現在のシンバル)もヨーロッパにもたらされた[12]。上述したように、吹奏楽という演奏形態は、地域的には世界各地にみられ、歴史的には古代にまでさかのぼりうるが、あえて弦楽器を排し、管楽器を主体とする編成は、多くの場合、軍隊と結びついていた[2]。隊列とともに演奏し、大音量を出せて野外で響かせることができ、どこでも演奏できるうえ信号や合図としても用いることができるということであれば、管楽器こそが軍隊に最も適した楽器だったのである[11]。
14世紀以降、ヨーロッパ諸国は、オスマン帝国ともしばしば交戦したが、このときオスマンの軍団が兵士の士気を鼓舞し、敵を威嚇ないし敵の戦意を喪失させるためにともなった軍楽隊がメヘテルハーネ(メフテル)である[注釈 7]。1453年のコンスタンティノープル陥落やそれに前後してのバルカン半島進出に衝撃を受けたヨーロッパ諸国は、同時にメヘテルハーネの大音量がもたらす効果にも驚愕し、やがて競って軍楽隊を整備するようになった[12][13]。
ルネサンス期のヨーロッパの軍楽は、古代ギリシャやローマとは異なり、鼓手が雇用されたが、これは、オスマン帝国の影響抜きには考えられない[12]。16世紀初頭に制作された絵画『凱旋行進』には神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世を先導する騎馬軍楽隊の威容が描かれており、トルコの影響を受けた楽器群とともに、鼓笛騎馬隊が皇帝に近侍して高い位にあったことがうかがわれる[12]。また、1549年のフォーケヴォ Fourquevaux『戦争法入門』には、3,000から6,000の歩兵について鼓手2名が必要であると記され、フランスの聖職者トワノ・アルボが16世紀末に著した『オルケソグラフィー(舞踏記譜法)』によれば、鼓手は野営の撤収、行軍、撤退、突撃の鼓舞、自己防衛の合図、警報など多様な役割をになっていた[12]。
17世紀以降、ヨーロッパでは軍楽隊の整備が急速に進展した[12][13]。17世紀中葉、イギリスで起こった清教徒革命では、王党派・議会派双方のプロパガンダを歌詞にもつ行進曲がそれぞれの楽隊によって合奏され、それはあたかも「音楽戦争」と称すべき様相を呈したという[12]。王政復古後のイングランド王、チャールズ2世はオーボエ=バンドを編成し[7]、自身も舞楽に堪能であったといわれる、フランス絶対王政時代の「太陽王」ルイ14世は、17世紀末にトルコのメヘテルハーネに範をとって、本格的なオーボエ=バンドを編成した[12][注釈 8]。ドイツでは18世紀初頭以降、隊列行進がおこなわれるようになり、こののち行進曲の需要が高まった[13]。
こうして始まったヨーロッパの吹奏楽であるが、やがて軍楽隊のみならず、一般の人びとによっても編成されることとなった[11]。結婚式や葬式などといった儀式、祝祭、宴会などでは音楽が必要とされたからであったが、レコードが発明されるまで、そうしたとき、民衆はみずから演奏する必要があったのである[11]。
一方、楽曲の面では、ルネサンス音楽の時期には、ツィンク(コルネット)[14]、トロンボーンなどの管楽器を用いた応答歌唱対位法の音楽がヴェネツィアのサン・マルコ寺院を拠点に演奏されるようになった。