吸血鬼_(ポリドリ)
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The Vampyre 1819年にSherwood, Neely, and Jonesより発行された表紙
著者ジョン・ポリドリ
国イギリス
言語英語
ジャンルホラー短編小説
出版社The New Monthly Magazine and Universal Register; London: H. Colburn, 1814?1820. Vol. 1, No. 63.
出版日1819年4月1日
出版形式印刷(逐次刊行物ペーパーバック
ページ数pp.195?206
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『吸血鬼』(きゅうけつき、原題:The Vampyre)は、1819年にジョン・ポリドリが書いた散文小説ゴシックホラージョージ・ゴードン・バイロン以下、ポリドリ、メアリー・シェリーパーシー・シェリーの4人がスイスレマン湖畔の別荘にて互いに怪奇談を語り合った中(ディオダティ荘の怪奇談義)で、バイロン卿が語った話が基になっている。ここから生まれた作品としては他に『フランケンシュタイン』がある[1]。本作は創作物におけるロマン主義吸血鬼のジャンルの始祖とみなされることが多い[2]

クリストファー・フレイリング(英語版)は、この作品を「吸血鬼にまつわる様々な伝承を首尾一貫した文学ジャンルに融合させることに成功した最初の物語」と評している[3]
プロット

オーブリーは、社交場において近頃ロンドンにやってきたというルスヴン卿(英語版)と出会う。2人は共にヨーロッパ大陸を旅することを決めるが、ルスヴンが共通の知人の娘を誘惑したことからローマにたどり着いた直後、仲違いし、オーブリーは一人でギリシャを旅する。そこで彼は宿屋の娘イアンテと恋に落ち、彼女から吸血鬼の伝説を聞く。その恋もつかの間、喉が引き裂かれた無残な死体となったイアンテが見つかる。街の人々はそれが邪悪な吸血鬼の仕業だと信じている。オーブリーはこの一件が、偶然にルスヴンが同地を訪れた直後に起こったことの関連性に気づかない。オーブリーは彼と仲直りして再び共に旅を始めるが、その道中で2人は強盗に襲われ、ルスヴンが致命傷を負ってしまう。死に際にルスヴンはオーブリーに対して「1年と1日の間、君は私や私の死について語らない」という誓いを立てさせ、彼が同意したのを確認すると文字通り笑いながら息絶える。

ロンドンに帰ってきたオーブリーであったが、そこにルスヴンが現れ驚く。彼は健在であり、新しい身分で無事に過ごしている。ルスヴンはオーブリーに誓いを確認させたうえで、彼の妹を誘惑し始める。妹を守るには無力なオーブリーは神経衰弱になってしまう。やがて回復するも、今度は誓いの終わる日にルスヴンと妹が結婚することを知らされる。オーブリーは自分の身に何かあってもいいように、結婚の日に届くよう妹への警告の手紙をしたためる。実際にオーブリーは誓いが終わる日よりも前に心労によって亡くなってしまうが、ところが手紙も間に合わなかった。ルスヴンは予定通りオーブリーの妹と結婚すると、その初夜のうちに妻を殺すのであった。
出版

『吸血鬼』は1819年4月1日にヘンリー・コルバーン(英語版)が『ニュー・マンスリー・マガジン』 (New Monthly Magazine) 誌において「バイロン卿作」と誤った著者情報で最初に出版された。というのもルスヴン卿という名前は、バイロンの恋人であったキャロライン・ラムが1816年に出版した小説『グレナヴォン(英語版)』(同じ出版社)に登場するグレナヴォン伯爵クラレンス・ド・ルスヴンに由来するものと見られ、このグレナヴォン伯のモデルがバイロンだったためである。バイロンとポリドリが何度も否定したにもかかわらず、本作の著者が誰かは曖昧なままになった。次号(1819年5月1日付)では、ポリドリが編集者に宛てた手紙で、「下地は確かにバイロン卿のものだが、その展開は私が考えたものだ」と説明している[3]

この物語は1819年にロンドンのパターノスター・ロウにあるシャーウッド・ニーリー・アンド・ジョーンズ (Sherwood, Neely, and Jones) 社から『吸血鬼。84ページの物語』 (The Vampyre; A Tale in 84 pages) として八つ折り判で初めて書籍化された。表紙には「1819年3月27日、ステーショナース・ホールで入選」と書いてあった。当初、著者はバイロン卿とされていたが、後の版において彼の名前は削除され、ポリドリの名前が表紙に追加された。

本作は、バイロンの名を冠したことや、大衆のゴシックホラーへの興味からすぐに人気を博した。ポリドリは、吸血鬼を民間伝承に登場する怪物から現代に認識されている形、すなわち上流社会を食い物にする貴族の悪魔に変えたのだった[3]

創作のきっかけは1816年夏のことであり、ヨーロッパと北アメリカの一部が深刻な異常気象に見舞われ、「夏のない年」と呼ばれた時であった[4]。スイスはレマン湖畔のヴィラ・ディオダティに滞在していたバイロン卿と若き医師ジョン・ポリドリのもとには、パーシー・ビッシュ・シェリーメアリー・シェリー、クレア・クレアモントが訪れていた。6月の3日間、5人は「絶え間なく降る雨」によって屋内に閉じ込められることとなり、そこで空想の物語を語り合い、また執筆した(ディオダティ荘の怪奇談義[5][6][7][8][9][10]。メアリー・シェリーは、『Fantasmagoriana』やウィリアム・ベックフォードの『ヴァテック(英語版)』などの怪談話と、大量のローダナム(アヘンチンキ)を服用し、のちに『フランケンシュタイン』(『現代のプロメテウス』)となる作品を生み出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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