君が代
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君が代
「君が代」の楽譜(国旗及び国歌に関する法律による)

国歌の対象
日本
作詞古歌(『古今和歌集』初出)
作曲林廣守奥好義フランツ・エッケルト (編曲)
採用時期1880年明治13年)10月26日(非公式)
1888年(明治21年)(対外正式公布)
1999年平成11年)8月13日(立法化)

試聴
君が代:様々な楽器による演奏 noicon
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映像外部リンク
日本代表 国歌「君が代」【ラグビーワールドカップ】歌詞付き - YouTube(ラグビーワールドカップ公式YouTubeチャンネルによる動画)
「君が代」独唱・斉唱 陛下の即位を祝う国民祭典6(19/11/09) - YouTube(テレビ朝日公式YouTubeチャンネルによる動画)
君が代発祥の寺で『初代君が代』を演奏 - YouTube(朝日新聞社公式YouTubeチャンネルによる動画)

『君が代』(きみがよ)は、日本国歌である。10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている[1][2]。世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている。当初は「祝福を受ける人の寿命」[2] を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌[2][3]となった。1869年明治2年)に薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選んだ歌が原型となっている。

その後1880年明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルト西洋和声により編曲したものが、1893年明治26年)の文部省文部大臣井上毅の告示以降[4]、儀式に使用され、1930年昭和5年)には国歌として定着した[注釈 1][1]1999年平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された[5]
歌詞.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに君が代の歌詞と楽譜の原文があります。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりてのむすまで」は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としている[1][3][6]

これが私撰(紀貫之撰集)の『新撰和歌』や朗詠のために藤原公任が撰した『和漢朗詠集』(11世紀成立)などにも収められ、祝賀の歌とされ、朗詠にも供され、酒宴の際に歌われる歌ともされたものである[1][3][7]9世紀にあって光孝天皇僧正遍昭長寿を祝って「君が八千代」としているように、「君」は広く用いる言葉であって君主天皇を指すとは限らなかった[1][8]

すなわち、「我が君」とは祝賀を受ける人を指しており、「君が代」は天皇にあっては「天皇の治世」を意味しているが、一般にあってはこの歌を受ける者の長寿を祝う意味であった[1][2][8][9]。この歌が利用された範囲は、歴史的にみれば、物語御伽草子謡曲小唄浄瑠璃から歌舞伎浮世草子狂歌など多岐にわたり、また箏曲長唄常磐津、さらには碓挽歌舟歌盆踊り唄、祭礼歌、琵琶歌から乞食門付など、きわめて広範囲に及んでいる[1][2]。また、「君が代は千代に八千代に」の歌が、安土桃山時代隆達にあっては恋の小唄であることは広く知られるところである[10]。この様に元来の歌では「君」の語は多義的に用いられ、身近な長者など様々な者を指し示していたが[11]、後述する通り時代がくだるにつれ次第に天皇のことを意味するようになり、特に明治以降は一義的に天皇を指して用いられるようになった[11]

国歌としては、1869年明治2年)、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしている[1][3]1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用された。そのテーマは皇統の永続性とされる[3][12]

日本の国歌の歌詞およびその表記は、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)別記第二では以下の通りである[注釈 2]

「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}君(きみ)が代(よ)は

千代(ちよ)に八千代(やちよ)に

細石(さざれいし)の

巌(いわお)となりて

苔(こけ)の生(む)すまで」
さざれ石、京都の賀茂御祖神社。

さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それにがはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである[8]。同様の表現は『梁塵秘抄』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる[13][注釈 3]。一方では、小石が成長して巨岩になるという古代民間信仰にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある[14][注釈 4]バジル・ホール・チェンバレン

イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレンは、この歌詞を英語翻訳した[15]。チェンバレンの訳を以下に引用する[16]:.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

Thousands of years of happy reign be thine;
Rule on, my lord, till what are pebbles now
By age united to mighty rocks shall grow
Whose venerable sides the moss doth line.

(→汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで)[17]

香港日本占領時期には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。皇祚連綿兮久長
萬世不變兮悠長
小石凝結成巖兮
更巖生国ロ之祥皇祚(こうそ)連綿(れんめん)として久しく長し
万世(ばんせい)変はらず悠(はる)かに長し
小石は凝結して巌(いわお)と成り
更に巌は緑苔(りょくたい)の祥(さいわい)を生ず
礼式曲「君が代」制定までの歴史
和歌としての君が代
テキスト

歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない[3][8]

我が君は 千代にやちよに さざれ石(いし)の 巌となりて 苔のむすまで

文献にみえる完全な一致は、朗詠のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)[3][7][18][19]

『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い[7]。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある[20]。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている[21]。朗詠は、西洋音楽やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と旋律が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から歌詞を聴きとることは至難である[22]

なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[20]
解釈

万葉集などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない[8]。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、松田武夫によれば光孝天皇藤原基経醍醐天皇の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である[23]。その祝いの内容は、ほとんどが算賀であるが出生慶賀もある[23]。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である[23]

後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、万治元年(1658年)のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、17世紀半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる[24][25]

『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[23]
諸文芸・諸芸能と「君が代」

「君が代」は朗詠に供されたほか、鎌倉時代以降急速に庶民に広まり、賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽猿楽謡曲などでは言葉をかえて引用された[26]


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