向谷実
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向谷 実
向谷実(2008年台北ゲームショウ)
基本情報
生誕 (1956-10-20) 1956年10月20日(67歳)
出身地 日本東京都世田谷区
学歴東京都立大学附属高等学校
ジャンルフュージョン
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キーボーディスト

作曲家

編曲家

音楽プロデューサー

実業家

タレント

担当楽器

キーボード

ピアノ

シンセサイザー

エレクトーン

活動期間1977年 -
事務所音楽館
共同作業者

カシオペア (1979-2012)

かつしかトリオ (2021-)

公式サイト株式会社音楽館

向谷 実(むかいや みのる、1956年10月20日 - )は、日本キーボーディスト作曲家編曲家音楽プロデューサー実業家タレント東京都世田谷区出身。

フュージョンバンド・カシオペアの元キーボード奏者(1977年-2012年)、およびかつしかトリオのキーボード奏者(2021年-)。鉄道関連事業を行っている株式会社音楽館代表取締役社長
人物

1977年、ネム音楽院(現:ヤマハ音楽院エレクトーン科在籍中であった20歳の時に、当時まだアマチュアバンドであったカシオペアにキーボーディストとして加入。1979年にカシオペアはメジャーデビューし、2006年の活動休止までリーダーの野呂一生と共に29年間歩み、カシオペアのサウンドを支えてきたが、6年後の2012年に活動再開する際に脱退した。脱退以後の音楽マネージメントは自身の会社である音楽館で行っている。

1995年、自身が培ってきたコンピューター技術を活かして、音楽館で実写版鉄道シミュレーションゲームTrain Simulator』シリーズの制作および発売開始。1990年代後半から2000年代に掛けては、カシオペアとともに活動の柱となっていった。なお、音楽館は2000年代後半よりコンシューマーゲームから業務用分野の鉄道シミュレーターに事業を転換している。

カシオペア活動中からソロでの音楽活動を行っており、様々なアーティストのレコーディングに参加。自身が中心となってプロデュースしたものも数多い。

カシオペア在籍時はライブでMC(司会)も担当。MCでの巧みな話術はメディア出演でも評判となり、『Train Simulator』制作以後は熱狂的な鉄道ファンとして鉄道関連番組に頻繁に出演するようになり、業務用分野のシミュレーターに事業を転換してからはプロとしての立場で鉄道関連番組に出演している。また、その知見を買われて近年は情報番組にコメンテーターとしても出演するようになり、従来の音楽ファン、鉄道ファン以外からも広い知名度を得ている。

2021年からカシオペアの元メンバーどうしであった櫻井哲夫神保彰との三人で、カシオペア時代と同じジャンルのフュージョン・バンド、かつしかトリオを結成して活動中。

自らが発信する動画配信やSNS投稿では、たんに告知だけではなく私生活をかなりオープンにしている。
来歴
学生時代

世田谷区二子玉川出身[1]。幼少の頃から音楽を学び、4歳半からオルガンを、5歳からピアノを習い始め、6歳で既に作曲を行っていたという[2]。その後にエレクトーンに移行した。中学生時代はエレクトーンに精力を傾け、地区のコンクールで優勝するなどしていた。

しかし、全国大会出場への強化合宿に軽い気持ちで出たところ、他の参加者たちが自分よりも高度な英才教育を施されてきたことからレベルの違いに愕然とする。そういった理由もあり、東京都立大学附属高等学校(現:東京都立桜修館中等教育学校)入学後の高校生時代は、音楽はあくまでも趣味レベルに留めることにしたが、エレクトーンの教習には通い続けて、アルバイトでデモンストレーター(楽器店の店頭における試演奏者)もやっていく。将来の目標は音楽とは別のところに置いていて、弁護士として社会奉仕活動に従事することを掲げていた。高校三年生の現役時、その目標のためにいくつかの難関大学を受験するものの、あえなく全滅。高校を卒業後、大学受験浪人として予備校生活に入る。しかし、通学途中の繁華街で遊興に耽る日々が続き、さらなる学力低下を招いてしまう。我に戻って危機を感じた向谷は翌年の大学受験は諦めることにして、進路変更を決意。高校時代の担任に相談しに行ったところ、氏からのアドバイスにより、長年やってきたエレクトーンの腕を活かすことにして、「手に職を付ける」、「就職に有利」な面から、ネム音楽院(現:ヤマハ音楽院)のエレクトーン科に進学した。向谷はそこでヤマハ音楽能力検定の「エレクトーン部門グレード3級(演奏)」と「指導者グレード3級」の両資格を取得している。
1977年、カシオペアに加入

このネム音楽院在籍時の1977年、友人を介して同学年の年齢だった野呂一生と知り合い、野呂が櫻井哲夫と結成していたバンド、カシオペアがアマチュアバンド・コンテスト「EastWest'77」に出場するにあたり、キーボーディストとして加入の誘いを受ける。その際、野呂はカシオペアの指向について、向谷が信奉していたミュージシャンの一人を引き合いに出して「チック・コリアみたいな音楽(当時活動していたエレクトリック編成のリターン・トゥ・フォーエヴァー)をやっている」と口説いた。カシオペアは前年度の同コンテスト(「EastWest'76」)に出場して決勝大会まで進出したこともあって、交友関係の輪の中にいた向谷も存在を知っていた。当初参加した理由は、前年度の同コンテストで野呂が最優秀ギタリスト賞を受賞し、その賞品として当時最新型にして最高級のエレクトリック・ギター(ヤマハSG-2000)を獲得したことが野呂本人から吹聴され、“この有望なバンドで決勝大会に出られれば、自分も欲しい楽器を獲得出来るかもしれない”という一時的なものだった。同じプロミュージシャンでも、これをきっかけにして(収入が不安定な)バンドマンになるなんて気はなくて、安定したエレクトーン業界で生活していく将来設計は据え置いていた。そして向谷を入れたカシオペアは自らのオーディションで選んだドラマーも加えて同コンテストに再出場することになる。

カシオペアに加入した向谷は、野呂が作ってきた楽曲における音楽性の高さに感銘する一方で、それまで野呂が独学で書いていた楽譜の楽典について専門教育を受けている立場から添削・修正する役割を請け負うなど深く関わっていく。また、前年度の決勝大会に出場したカシオペアの再出場は「EastWest'77」の注目の的であり、下馬評で最高位のグランプリが確実視されるなど、軽い気持ちで参加した向谷をどんどん本気にさせていった。そしてカシオペアは前年度に続き、決勝大会まで進出。惜しくもグランプリは獲れなかったが、優秀グループ賞を受賞した(なお、本年度は当初目当てにしていた賞品は出されなく、賞状のみであった)。この頃になると、向谷の気持ちはすっかり変わり、元からプロ志望であった野呂と共にカシオペアとしてプロデビューを目指すことになっていく。そして、カシオペアは「EastWest'77」決勝大会出場メンバーで都内近郊を中心にライブ活動開始。このデビュー前の時期、「EastWest'77」の審査員だった鳴瀬喜博に見いだされ、プロとしての仕事に度々誘われるようになる。また、この頃から家庭を持ち始めたこともあって、自活のために引き続きエレクトーンのデモンストレーターやスタジオ・ミュージシャン、コピー譜の採譜作業をするようになる。
1979年、カシオペアでプロデビュー

1979年5月25日、日本におけるフュージョンブームの真っ直中、カシオペアはアルバム『CASIOPEA』でメジャーデビュー。野呂の優れた作・編曲の能力とともに、ライブで完全再現させる演奏力で高い評価を得ていく。そのデビューアルバムに付けられたキャッチコピー「スリル、スピード、スーパー・テクニック」の表現通り、超絶技巧かつアクロバティックな演奏スタイルで、向谷は同時に2台のキーボードを弾き分けるなどエレクトーン・プレーヤー出身の素性が活かされた。また、カシオペアはライブにおいて、結成時からしばらくはリーダーである野呂がMC(司会)を務めていたのだが、この頃に向谷に移行されることになる。カシオペアの演奏とともに向谷のMCも評判となり、その軽妙さから向谷の名字をもじり、司会屋実(しかいやみのる)の異名が与えられた。

カシオペアは当時半年というインターバルでのアルバムのリリースごとに売り上げを伸ばし続け、ライブの規模と動員もそれに伴って拡張していった。カシオペアが多忙になったこと、そしてカシオペアで安定した収入が得られるようになったこともあり、デビュー後も行っていたスタジオ・ミュージシャンを一時休止し、1980年代前半の一時期はカシオペアの活動だけに専念するようになる。しかしながら、カシオペア以外の音楽活動にも意欲的な心は持ち続けていて、1984年に初めて自身が音楽制作のイニシアチブを取って、亜蘭知子のアルバム『More Relax』をサウンドプロデュースした。さらに同年には都内にレコーディング・スタジオ「スタジオJIVE」を賛同者とともに建設し、向谷は関連会社の音楽館を興してスタジオ運営に参画する。以降、このスタジオJIVEが、初のソロアルバム『ミノル・ランド』のレコーディングをはじめとした向谷のホームグラウンドとなり、カシオペアの国内におけるレコーディングもここを中心になされていくようになる。

1980年代前半、趣味の一環としてパソコンを購入。熱中するようになった向谷は、国産からすぐに米国Apple Computerが出したばかりのMacintoshに辿り着き、パソコン通信で海外音楽関係者と情報のやりとりをしたり、デジタル機材のデータ管理など音楽活動にも用いていくようになる。1980年代後半から1990年代前半に掛けて、パソコン、とりわけMacintoshを使うミュージシャンの代表格として各種メディアに取り上げられるようにもなる。そして1993年、向谷は自身が経営する音楽館で、カシオペアが題材となった、映像と音楽を融合させたCD-ROMソフト『Touch the Music by Casiopea』を制作して発売する。これは後に制作する『Train Simulator』のプロトタイプともなった。
1995年、Train Simulatorを発表

幼少の頃から鉄道が趣味で、切符収集から始まり、学生時代は当時ブームだった8ミリ映画カメラでSL(蒸気機関車)を撮りに遠方まで出掛けていた。カシオペア在籍時代もライブツアーで全国各地を廻る際、機会があればその地元の路線に乗りに出掛けたり、他のメンバーやスタッフが旅客機や新幹線で時間的に効率な移動をするなか、好んで移動時間が掛かる夜行列車など利用して鉄道趣味を堪能していた。また、1985年に発表した初のソロアルバム『ミノル・ランド』にSLの音が取り入れられた曲「TAKE THE SL TRAIN」を作って収録するなど、その趣味の熱心さは以前からカシオペア・ファンには知られる事柄であった。

1995年に世界初の実写版鉄道シミュレーションゲーム『Train Simulator』第1弾「中央線201系(中野-豊田)」(Macintosh用)を自身の会社、音楽館で制作して発売する。音楽活動で培ったコンピューター技術を用いて、列車の乗務員室から業務用ビデオカメラで撮影した実写のノンストップ動画を処理して完成したのが本作である。ソロ活動の一環ではあったが、多分な趣味的要素で個人的にプロジェクトを立ち上げたものであった。しかし、ドライブシミュレーションゲーム(自動車)フライトシミュレーションゲーム(飛行機)しかなかった実機シミュレーションゲームに「鉄道シミュレーションゲーム」という新たなジャンルを生み出してヒットさせた。

これ以後、1990年代後半から2000年代前半に掛けて、向谷にとって『Train Simulator』シリーズの制作はソロ活動の柱となった。『Train Simulator』の音楽制作は自らで手掛けていたが、それ以外のソロにおける音楽活動は激減していった。時を同じくして、カシオペア自体の活動も年々減少していく。そのため、『Train Simulator』制作者として音楽とは異分野でメディア出演が増えていくも音楽シーンにおいては霞がちになっていった。
2006年からのカシオペア休止期における活動

2006年8月1日、カシオペアはリーダー・野呂の意向により、レコーディングおよびライブなどの活動をすべて休止した。

カシオペア休止以降、向谷の音楽活動は逆に精力的になり、鉄道事業の音楽制作において起用したミュージシャンらで、向谷実とメロディーズ(宮崎隆睦矢堀孝一、鹿島達彦、平川象士、壷井彰久)を結成し、鉄道イベント等でのデモンストレーション・ライブの他、有料での単独ライブも開催した。また、カシオペアのデビュー直後から親交がある三枝成彰の実験的なコンサートにも参加していくようになる。2010年twitterでの交流をきっかけに歌手・中西圭三と向谷実×中西圭三プロジェクトが立ち上げられた。twitterで一般から歌詞を公募、レコーディング作業は全てUstreamで実況中継して制作過程を可視化、さらに当初はCDは制作せずにダウンロード販売でするなどインターネットがフル活用された実験的な音楽制作を行って話題となった。

2000年代後半、『Train Simulator』シリーズはタイトーとの合作による『Railfan』に収束して制作が休止するものの、向谷と音楽館はその応用として富士通と提携して鉄道会社が実際に乗務員の訓練に使用する業務用シミュレーターの開発を手がけるようになり[2]2007年には鉄道博物館の展示品で来場者が動かす「国鉄D51形蒸気機関車運転シミュレーター」の開発にも携わった。これが近年の主な事業となっていく。

ニコニコ超会議における団体臨時列車ニコニコ超会議号や、東急百貨店東横店で毎年開催の「鉄道フェスティバル in SHIBUYA」などの鉄道関連イベントをプロデュース。

2001年から2010年まで名古屋芸術大学音楽学部音楽文化応用学科の新設と共に専任教授を務めた。


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