向島_(広島県)
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向島
南南東から望む
所在地 日本 広島県尾道市
所在海域瀬戸内海
所属諸島芸予諸島
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分0秒 東経133度12分0秒 / 北緯34.38333度 東経133.20000度 / 34.38333; 133.20000座標: 北緯34度23分0秒 東経133度12分0秒 / 北緯34.38333度 東経133.20000度 / 34.38333; 133.20000
最高標高283 m
最高峰高見山
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浄土寺山からの尾道大橋新尾道大橋と向島因島からの因島大橋と向島

向島(むかいしま)は、広島県尾道市に属する
地理

本州尾道市街から南に約300m幅の尾道水道を隔てた位置にある島で、文字通り尾道の向かい側に位置する島[1]。北側が本州、南側が因島、西側が岩子島でそれぞれ橋で結ばれている。東側が尾道市の飛び地である浦崎町、無人島の加島その先が有人島の百島

面積22.22km2。周囲約28km[1]。北岸に平地が広がり、その他はほぼ丘陵地である[1]。最高峰は高見山283m [1]。気候は瀬戸内海式気候

郵便番号は以下のとおり。

〒722-0073 向島町 むかいしまちょう

島の大部分を占める。


〒722-0071 向島町立花 むかいしまちょう たちばな

〒722-0062 向東町 むかいひがしちょう

2016年現在2つの日本遺産に絡んでいる。一つは、日本遺産「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」であり、島の北側である尾道旧市街地と密接な関係にあることからその範囲に含まれている[2]。もう一つが日本遺産「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島?よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶?」であり、島の北側・南側ともに安芸地乗りと呼ばれた古くから瀬戸内海の主要航路でそれぞれを掌握するため村上水軍などの海賊衆の拠点が置かれていたことがあることから、その構成文化財として日本遺産に認定されている[3]。つまり、島の歴史・産業・文化などは北側の尾道・南側の因島と密接な関係にある。更に西側の岩子島のものも、この島と一体化していたものと考えられている[2]。芸予諸島周辺島々とともに造船のしまでもある。温暖な気候の丘陵地、尾道という商業地の近くにあるという立地から柑橘類栽培や近郊農業が盛んで、また漁業も盛んである[1] 千光寺公園から望む向島。
歴史
古代

この島では縄文時代の遺跡・遺物包含層が幾つか発見されている。例えば島の東部海岸沿いにある「古江浜遺跡」では製塩土器が発見されており[4][5]、島の北東部松永湾一帯で発見されている製塩出土遺跡群の一つである[6]。島の中央である田尻では有茎尖頭器が発見された「古神宮寺遺跡」が、島の北側である宇立には縄文土器や須恵器が発見つまり縄文時代から古墳時代のものである「入川の上遺跡」がある[4][5]

古墳時代の古墳も同様に島の東岸周辺・尾道水道付近・島の中央付近に点在している[4][5]

高見山頂にある雨乞いの碑は大正時代から昭和初期にかけて建立されたもの。ただ古くから水不足解消のため雨乞いの風習があったと伝わる[7]
歌島

この島の名が出てくる最古の資料は平安時代中期の辞典である『和名類聚抄』で、「宇多乃之萬(うたのしま)」とある[8][9]。そこから鎌倉時代から室町時代にかけて「宇多乃末」「歌嶋」「歌之嶋」と歌の字があてられた[9][10]。ここでいうウタとは古来の言葉で低湿地帯を意味し[9]、ここ以外ではウタあるいはウダ(陀・宇陀・宇田など)[11]、ムダ(牟田)などの名で残っている。この島は現在でこそひとつの島として形成されているが、かつては七つの島からなるといわれており、明治初期までは向島町と向東町の町境に当たる島の中央部、兼吉-江奥-干汐ですら満潮時には船で往来できた。

中世、この地は大炊寮領歌島荘という荘園であった[10]。それ以前は島の西側は塩田荘と呼ばれた安楽寿院領のち八条院領であったとも[12]。温暖だが降水量が少ない気候から塩作りが盛んになり[7]、年貢として塩を納めていた[10]応安4年(1371年)今川貞世(了俊)が九州探題として下向していた時の紀行文『道ゆきぶり』の中に、尾道とともにこの島のことが登場する[13]。たゞ此むかひたるかたに、よこほれる島山あり。むかし此所をらうじける人、和歌の道にすける心ふかきあまりに、おりたつ田子いりぬる海人までも、歌をなんよませつゝ待てけうじけるより、やがてこの所を歌のしまというとぞ。しほやどもかすかにて、やきたつるけぶりのすえ物あはれなり。此島にしほやくたびに、一日二日のほどに必ず雨のふり待るといひならはしなり。げにもと覚えき。・・・・ ? 今川了俊、道ゆきぶり[13]

この中では、この島は和歌が盛んだったことから歌島の名がついたこと、沿岸部で盛んだった製塩業では塩を焼くときの煙で雨を呼んでいたことが書かれている[13]。この時代、歌島(向島)で生産された塩などの物産を取引することにより、対岸の尾道は港町として成長していった[14]

この歌島が向島と呼ばれるようになったのは室町時代からである[9]。この時代、交易港として発達した尾道に文人墨客が立ち寄ると、「向かいの島」を自身の作品に残したのが始まりであるとされている[9]


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