向島百花園
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向島百花園
Mukojima-Hyakkaen Gardens

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分類都立庭園名勝史跡
所在地東京都墨田区東向島三丁目18番3号
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度43分27.1秒 東経139度48分55.6秒 / 北緯35.724194度 東経139.815444度 / 35.724194; 139.815444座標: 北緯35度43分27.1秒 東経139度48分55.6秒 / 北緯35.724194度 東経139.815444度 / 35.724194; 139.815444
面積10,885.88m2[1]
開園昭和14年(1939年7月8日[1]
設計者(1917年改修時)長岡安平
運営者東京都公園協会
2011?2015年度指定管理者
設備・遊具集会場(御成座敷)
告示1939年7月8日開園
公式サイト公式ホームページ
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向島百花園入場門

向島百花園(むこうじまひゃっかえん)は、東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園で、江戸時代に発祥をもつ花園である。みどころは早春のと秋のである。隅田川七福神の発祥の地であり佐原鞠塢(さはらきくう)が所有していた、ともいわれる「福禄寿」が祭られている。
歴史
かつての向島

明治31年(1898年)書かれた風俗画法『新撰東京名所図会』の「隅田堤」に、「向島は、隅田川の東方をいふ。もとは関屋の庭の称なりしと云。其の故は、隅田川御殿より関屋川を隔て向ふにある庭なりしに因り、将軍の向島といひ出られしに基くといへり。以下省略」と記述されている[2]。隅田川西岸から、江戸城に近い方から見れば川向うは「向島」と呼べる地域であった[2]。向島は歴史的に古い地名が残っており、「牛島」「寺島」「洲崎」「請地」「柳島」などがそうである[2]。「牛島」は永禄2年(1559年)書かれた『小田原衆所領役帳』に「富永弥四郎江戸牛島四ヶ村百五十貫文」の記述があり「牛島四ヶ村」は通説で旧本所中ノ郷、小梅、須崎、押上をいったようである[2]。牛島の中心は「牛島神社」であり、洲崎は東京湾の三角洲の「洲の岬」で、請地は「浮地」、柳島は海の砂が持ち上がった砂丘地に柳の木が植わった島だった[2]
多賀屋敷

向島百花園の土地は、江戸時代は武蔵国葛飾郡寺島村で、文化(1804?1818年)初年頃の初代広重の「隅田つつみ花さかり」「四ツ木通引曳道」「東都木下川田圃」などの図で想像できる[3]。この土地の住人は「多賀屋敷」と言い、幕臣多賀氏の所領で、百花園の名碑を説明した『園のいしふみ』には「多賀屋敷の事は坂田老人の記に豪民とあれど、徳川家旗本の士なるよし」とある[3]。多賀氏は近江国多賀荘を領していた京極家の一族で、多賀新左衛門常則は浅井長政に仕えた戦国武将で、羽柴秀長の幕下となり、その子吉左衛門常直も豊臣家に仕え、後に徳川家康に招致された[3]。多賀氏の初代は常直の四男角左衛門常次で、徳川秀忠の旗本として大番組に入り、葛西の寺島、請地、渋江、川端の四村を知行地とした[3]。多賀氏2代目三郎兵衛常往は明暦3年(1658年)相続、3代目藤次郎は天和3年(1683年)相続、4代目主悦は享保元年(1716年)没し多賀家は四代で滅んでいる[3]。多賀屋敷が文化年中まで明屋敷だったことは、裕福な旗本で自費で買取った私有地だった[3]
梅屋敷

坂田皇蔭の『野辺の白露』に「梅邸菊塢墓、菊塢又鞠塢と云。俗称を平八という。奥州仙台の人なり。天明年間江戸に来り、中村座芝居茶屋和泉屋勘十郎に召仕はれ、称を平蔵と改む。斯て十年許の間に蓄財し、住吉町に骨董店を開き、北野屋平兵衛と称す。以下省略」との記録がある[4]。菊塢は浅草永住町称念寺過去帳から本姓佐原氏で、天明(1781?1789年)年間に仙台から江戸に来て住吉町で骨董店を営んでいた[4]喜多村信節の筆記に「好事者にて、書画を好み、文字なけれども諸名家に立入、遂に梅屋敷を思付き、諸家に募りて梅樹の料を求め、以下省略」の記録がある[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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