向島百花園
Mukojima-Hyakkaen Gardens
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}
分類都立庭園・名勝・史跡
所在地東京都墨田区東向島三丁目18番3号
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度43分27.1秒 東経139度48分55.6秒 / 北緯35.724194度 東経139.815444度 / 35.724194; 139.815444
向島百花園(むこうじまひゃっかえん)は、東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園で、江戸時代に発祥をもつ花園である。みどころは早春の梅と秋の萩である。隅田川七福神の発祥の地であり佐原鞠塢(さはらきくう)が所有していた、ともいわれる「福禄寿」が祭られている。 明治31年(1898年)書かれた風俗画法『新撰東京名所図会』の「隅田堤」に、「向島は、隅田川の東方をいふ。もとは関屋の庭の称なりしと云。其の故は、隅田川御殿より関屋川を隔て向ふにある庭なりしに因り、将軍の向島といひ出られしに基くといへり。以下省略」と記述されている[2]。隅田川西岸から、江戸城に近い方から見れば川向うは「向島」と呼べる地域であった[2]。向島は歴史的に古い地名が残っており、「牛島」「寺島」「洲崎」「請地」「柳島」などがそうである[2]。「牛島」は永禄2年(1559年)書かれた『小田原衆所領役帳』に「富永弥四郎江戸牛島四ヶ村百五十貫文」の記述があり「牛島四ヶ村」は通説で旧本所中ノ郷、小梅、須崎、押上をいったようである[2]。牛島の中心は「牛島神社」であり、洲崎は東京湾の三角洲の「洲の岬」で、請地は「浮地」、柳島は海の砂が持ち上がった砂丘地に柳の木が植わった島だった[2]。 向島百花園の土地は、江戸時代は武蔵国葛飾郡寺島村で、文化(1804?1818年)初年頃の初代広重の「隅田つつみ花さかり」「四ツ木通引曳道」「東都木下川田圃」などの図で想像できる[3]。この土地の住人は「多賀屋敷」と言い、幕臣多賀氏の所領で、百花園の名碑を説明した『園のいしふみ』には「多賀屋敷の事は坂田老人の記に豪民とあれど、徳川家旗本の士なるよし」とある[3]。多賀氏は近江国多賀荘を領していた京極家の一族で、多賀新左衛門常則は浅井長政に仕えた戦国武将で、羽柴秀長の幕下となり、その子吉左衛門常直も豊臣家に仕え、後に徳川家康に招致された[3]。多賀氏の初代は常直の四男角左衛門常次で、徳川秀忠の旗本として大番組に入り、葛西の寺島、請地、渋江、川端の四村を知行地とした[3]。多賀氏2代目三郎兵衛常往は明暦3年(1658年)相続、3代目藤次郎は天和3年(1683年)相続、4代目主悦は享保元年(1716年)没し多賀家は四代で滅んでいる[3]。多賀屋敷が文化年中まで明屋敷だったことは、裕福な旗本で自費で買取った私有地だった[3]。 坂田皇蔭の『野辺の白露』に「梅邸菊塢墓、菊塢又鞠塢と云。俗称を平八という。奥州仙台の人なり。天明年間江戸に来り、中村座芝居茶屋和泉屋勘十郎に召仕はれ、称を平蔵と改む。斯て十年許の間に蓄財し、住吉町に骨董店を開き、北野屋平兵衛と称す。以下省略」との記録がある[4]。菊塢は浅草永住町称念寺の過去帳から本姓佐原氏で、天明(1781?1789年)年間に仙台から江戸に来て住吉町で骨董店を営んでいた[4]。喜多村信節の筆記に「好事者にて、書画を好み、文字なけれども諸名家に立入、遂に梅屋敷を思付き、諸家に募りて梅樹の料を求め、以下省略」の記録がある[4]。佐原鞠塢が寺島村にあった旧多賀氏所有の屋敷跡にあたる一町歩(三千坪)の土地を入手し[5][6]、造園を行った。開園は1804年(文化元年)頃と言われている[7]。清水晴風『『東京名物百人一首』には文化元年開園との記載があるが、前島康彦『向島百花園』[5]のように文化二年開園とする説もある。 開園にあたっては、加藤千蔭、村田春海 、太田南畝、亀田鵬斎、大窪詩仏、および酒井抱一、谷文晃らの文人や町民から、360余種の梅の木が寄贈されたという。[8][6]また、これら梅の木が植えられたことから、開園当初は、当時亀戸(現・江東区)にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」「花屋敷」などと呼ばれていた。その後、園主や文人たちの構想で、詩歌にゆかり深い草本類が多数栽培されていった。園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られた。このようにして、萩を中心とした秋草をはじめ、春夏秋冬、一年を通じて花を楽しめるようになり、1809年(文化六年)頃から「百花園」と呼ばれるようになった。また、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。 江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「梅は百花にさきがけて咲く」といって「百花園」の命名者となった絵師・酒井抱一の他、門の額を書いた狂歌師・大田南畝などがいた。また徳川12代将軍家斉や、12代将軍家慶も百花園を訪れていた。福禄寿尊堂 1831年(天保二年)に、初代・佐原鞠塢が没し、このときに近親者が鞠塢を追悼するために、虫の放生会を行ったことが、「虫はなち会」(現在の「虫ききの会」)の原型であると言われている。[9]なお、百花園の行事として「虫はなち会」が行われるようになったのは、明治中頃である。[9] 百花園は、その後も民営の公園としての長い歴史を重ね、明治40年代初めには米国大統領ウィリアム・タフトや昭和天皇による来訪を受けるが、周辺地域の近代化や明治43年(1910年)以降、度重なる洪水などの被害を受け、明治末年頃よりその影響で草木に枯死するものがあり、一時は園地も荒廃したが、大正13年(1924年)には、東京府から「史跡名勝」の標識を得、昭和8年(1933年)には国の「名勝」に指定される。
歴史
かつての向島
多賀屋敷
梅屋敷
百花園