向井真理子
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むかい まりこ
向井 真理子
プロフィール
本名朝戸 真理子(あさど まりこ)
[1](旧姓:向井[2]
性別女性
出身地 日本東京府東京市中野区[3]朝日ヶ丘(現:東京都中野区本町[注 1]
生年月日 (1937-10-13) 1937年10月13日(86歳)
血液型AB型[4][5][6]
職業声優
事務所81プロデュース[7]
配偶者朝戸鉄也[2][8]
公式サイト向井真理子 - 81プロデュースの公式サイト
公称サイズ(時期不明)[10]
身長 / 体重155[9] cm / 49 kg
活動
活動期間1950年代 -
デビュー作真弓(『花ふたたび』)[2]
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

向井 真理子(むかい まりこ、1937年昭和12年〉10月13日[2][4][11] - )は、日本女性声優81プロデュース所属[7]東京府東京市中野区[3]朝日ヶ丘(現:東京都中野区本町)出身[注 1]。夫は朝戸鉄也[2][8]
経歴
生い立ち

戦時中は父の故郷の大阪府北河内郡星田村(後の大阪府北河内郡交野町、現:大阪府交野市)に疎開して小学4年生まで過ごしていた[2]

小さい頃より、詩、童話が好きだったという[2]小川正子の手記『小島の春』を読んで感銘を受ける[2]。当時は友人たちの読み終えた本を集めて病院に寄贈したり、弁当を持ってこなかったクラスメイトのために毎日弁当を持っていってあげたりしており、将来は「世のため人のために奉仕する仕事がしたい」と夢を描いていたという[2]

終戦後、しばらくは一家は東京に帰郷したが、向井は河内弁であり、標準語を喋れなくなっていた[2]

その後、父の仕事の都合もあり、北海道に鉱山がある土地を転々として小学校卒業するまでは6回も転校した[2]

東京に帰郷した後は東京都世田谷区下北沢から?友学園女子中学校に通学していた[2]
キャリア

学生時代は演劇部に所属していた[11]。クラスメイトに熱烈なヅカファンがおり、憧れのスターたちに会いたいばかりに、無断で宝塚音楽学校に入学させることを計画していた[2]。それまで少女歌劇なるものを見たこともなく、「男装して演じるなんて……」とさえ思っていた[2]。受験する気はなかったが、「数学のない世界に生きたい」と1952年、宝塚音楽学校に宝塚歌劇団40期生として入学[2][12]。その時の母親は大反対していた[12]。しかし堅物でとうてい聞き入れてくれないと思っていた父親が、許してくれたという[2]。入学後、何をやってもドジばかりだったが、先輩、同級生の皆からは、「ドジなマリちゃん」と、大いにかわいがられていたという[2]。音楽学校卒業後、宝塚歌劇団入団後星組に配属された[2]。在団中の芸名は美鳩 万里子[2]。宝塚歌劇団に入団してから2年8カ月目、友達に「宝塚は大変」と手紙を書いたところ、前述のとおり、向井が芸能界に入ることを大反対していた母親にやめさせられてしまい、退団[2][3][12]。東京に帰郷したが、学歴は中卒で、就職の口もなく、「これからどうしようか」と考えて、しばらくの間家でブラブラしていた[2][12]

そんなある日、新聞でラジオ東京のテレビ俳優の募集の広告が載っており、「これだ!」と応募していたところ、合格[2][3][12]。1955年に東京テレビ劇団(旧:ラジオ東京放送劇団)に第四期生として入団[2][3][12][13][14]。本人は元々女優志望だったが、後にラジオ放送劇団に配属[12]。それから1週間も経たないうちにラジオドラマのヒロインのオーディションに誘われて合格、声優デビューとなった[12]。初仕事は朝のラジオドラマ『花ふたたび』の主役・真弓役となる[2]

1958年に劇団を退団して東映と契約するが[15]、同年中にフリーランスとなる[16]


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