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五胡十六国時代の吐谷渾の位置
都蘭
可汗
286年 - 317年慕容吐谷渾
317年 - 329年吐延
636年 - 666年諾曷鉢
変遷
建国329年
滅亡663年
吐谷渾(とよくこん、?音:t?yuhun)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。3世紀から7世紀まで(286年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。 鮮卑族の慕容部において大人(たいじん:部族長)の慕容渉帰が死去すると、嫡長子の若洛?(慕容?)が後を継いで大人となった。一方、庶長子である慕容吐谷渾は父の代から700戸を分け与えられていたが、あるとき慕容吐谷渾の馬たちが弟の慕容?の馬たちに危害を加えたため、その罪で慕容部から追放されてしまう。慕容吐谷渾たちは陰山に行き着くが、永嘉の乱に遭遇したため、最終的に西の隴山を越えて西零以西の甘松の界(青海地方)に移り住み、遊牧を始めた。慕容吐谷渾が死ぬと、その子孫たちは始祖である吐谷渾の名を取って国名とした。 吐谷渾は南北朝時代の中国王朝にしばしば朝貢し、中国文化を摂取した。とくに436年には北魏から鎮西大将軍、438年には南朝宋から鎮西大将軍・都督西秦河沙三州諸軍事・西河二州刺史・隴西王を授けられ、翌年には河南王に改封された。444年、吐谷渾内部で権力闘争があり、北魏軍の侵攻を受けたため、吐谷渾王の慕利延は于?国(現在の新疆ウイグル自治区・ホータン市)に逃れて、于?王を殺し、その地を占拠した。その後、慕利延は故土に戻り、南朝宋との関係を深め、北魏としばしば交戦した。この頃、吐谷渾は西域南道諸国も支配し、シルクロードの国際貿易を統制していた。 581年、楊堅はシルクロードの交易を確保するため、歩騎数万を送って吐谷渾を攻撃し、大敗した吐谷渾王は遠く逃れたため、隋は吐谷渾に傀儡政権を樹立した。隋の煬帝もしばしば吐谷渾に遠征軍を送り、この地域に西海郡・河源郡などを設置した。しかし、隋末の大乱により、吐谷渾が奪回している。唐の太宗も635年に李靖を大総管とする大軍を吐谷渾に遠征させたため、吐谷渾は東西に分裂、西部は?善国(現在の新疆ウイグル自治区・ロプノール付近)を中心に吐蕃に降り、東部はなお青海にあって唐の属国となった。唐はしばしば吐谷渾王に公主を降嫁させて懐柔を図り、唐との関係は友好的なものがあった。 663年、吐谷渾は突如吐蕃の攻撃を受けて壊滅した。多くの部衆は唐に逃れ、青海に残った者は吐蕃の支配下に置かれた。唐の高宗は吐谷渾を復国させるため、670年に将軍の薛仁貴に5万の大軍を授けて青海に出撃させたが、大非川の戦い 吐谷渾は遊牧を主として生活し、馬・?牛・駱駝などを盛産した。その良馬は青海駿(北史では青海?と書かれる)と呼ばれ、日に千里を行く竜種として有名であった。青海の地は寒冷で農業はあまり発展しなかったが、銅や鉄を産し、鉱山や冶金が発展した。吐谷渾の領土は現在の新疆南部に及び、そのキャラバン隊はシルクロードを通り中央アジアやペルシャにまで進出、その物産を益州や長安にもたらした。 宗教はもともとシャーマニズムであったが、後には仏教を信仰し、514年には益州に九層の仏寺を寄進している。文字はなく、上流階層は漢字を使用した。吐谷渾の婦人は金花で頭部を飾り、とくに可汗の夫人は華麗な金花冠を頭に載せていた。これは遼西の慕容部に共通する風俗である。
歴史
建国
六朝との関係
隋唐との関係
滅亡
社会経済
歴代君主
慕容吐谷渾(286年 - 317年)…慕容渉帰の庶長子
吐延(317年 - 329年?)…吐谷渾の長男
葉延(329年? - 351年?)…吐延の長男
辟奚(碎奚)(351年? - 375年?)…葉延の長男
視連(375年? - 390年?)…辟奚の子
視羆(390年? - 400年?)…視連の長男
烏?提(大孩)(400年? - 407年?)…視連の次男
樹洛干(407年? - 417年?)…視羆の長男
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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