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名前
愛称ナナ、名波くん、なっちゃん、773
カタカナナナミ ヒロシ
ラテン文字NANAMI Hiroshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1972-11-28) 1972年11月28日(51歳)
出身地静岡県藤枝市
身長177cm
体重70kg
選手情報
ポジションMF
利き足左足
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1995-2008ジュビロ磐田 301 (32)
1999-2000→ヴェネツィア (loan) 24 (1)
2006→セレッソ大阪 (loan) 13 (2)
2007→東京ヴェルディ (loan) 17 (0)
通算355(35)
代表歴2
1995-2001[1] 日本67 (9)
監督歴
2014-2019ジュビロ磐田
2021-2022松本山雅FC
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月1日現在。
2. 2001年4月25日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
名波 浩(ななみ ひろし、1972年11月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。元日本代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
Jリーグのジュビロ磐田、セレッソ大阪、東京ヴェルディ1969、イタリア・セリエAのACヴェネツィアでプレーした。Jリーグベストイレブンを4度受賞。日本代表では背番号10番を着用し、1998年のフランスワールドカップに出場した経歴を持つ。マネジメントは株式会社ラボーナ。 静岡県藤枝市にて名波家4人兄弟の末子として出生。サッカーが盛んな藤枝市という環境と兄らの影響もあり、物心つくうちからサッカーに熱中する。この頃の浩は、時間があれば電話で友人を呼び出してサッカーに明け暮れていた。やや肥満気味でゲーム中あれこれ指図することから付けられたあだ名は「ジャイアン」。外でサッカーが出来ない時は兄らと自宅でボール蹴りに興じ、部屋の調度品を破壊していた。 藤枝市立西益津小学校に入学し、休み時間はサッカー、放課後は空き地や田圃、大手公園(通称チビッコ広場)で日が暮れるまでボールを蹴り、ディエゴ・マラドーナのプレーに衝撃を受け左足の技術を磨く。小学2年生時に実兄・豊の後に付き、西益津サッカー団のセレクションに参加した。当時のコーチを驚嘆させるほどのセンスに溢れた左足を持っていたが、入団の条件が小学3年生以上だったため落選。小学3年生時の再挑戦時には、更に技術に磨きがかかっていた。小学校4年生時、既に同世代との試合では圧倒的なプレーを見せていた浩は飛び級で年長チームに所属するようになった。この頃のポジションは左ウイング。 藤枝市立西益津中学校入学。中学2年生時でレギュラー獲得。「フィーバーした」と回想するほど対抗試合で勝ち続け、3年生で県予選優勝。藤枝市立西益津中学校 サッカー熱で藤枝市と清水市の対立が激しかったこの当時、県選抜の仲間の大半が清水市立商業高校へ進学することを知った浩は「俺もキヨショーに行けば、さらに強いチームになる」と清水市立商業高校へ進学を希望した。その際に担任から藤枝市内にある全ての高校が入学を待ち望んでいると助言され1度は進路を保留するも、最終的に清商へ進学。 清水商業高等学校時代は大岩剛、山田隆裕、薩川了洋、望月重良らと共に高校総体、ユース選手権を制覇した。 順天堂大学入学、同大学サッカー部入団。在学中に五輪代表(U-23)に選ばれ、バルセロナ五輪アジア最終予選では3試合で途中出場した。サッカーの技術が上達しようとも、それだけでは生計が立てられない状況を諦観する中、JSLが1993年にJリーグと名を変え発足。次々と同世代がプロになっている事に焦り、親から200万円を借りてサッカーの海外留学を頼むも「大学を卒業する事が絶対条件」と却下された。同部では1部残留を辛うじて決め卒業した。 1995年にジュビロ磐田に加入。加入直後からレギュラー入りし、4月12日の柏レイソル戦でJリーグ初ゴールを決めた[2]。 同年から加茂周監督率いる日本代表に招集。当初はクラブと同じ攻撃的MFで起用されていたが、アトランタ五輪後に前園真聖が日本代表に合流するタイミングで、ボランチにコンバートされた。その後中田英寿の台頭もあり日本代表では主にボランチで起用された。 1998年のフランスW杯では、アジア地区予選から日本代表の一員として出場。背番号10番を付け、中盤の中心選手として本大会にも全試合に先発出場した。その後、右膝の怪我をするまでの約6年間、日本代表の10番として君臨した。名波本人は7番の着用を希望していたが、代表のスターティングメンバー選出時に10番を任され困惑したというエピソードが存在する。ラモス瑠偉の後継となる10番だったが勝ち点が伸びずにメディアに叩かれ、更に国立競技場での対韓国戦では柳想鐵の執拗なマークに遭い、マークを外すだけで手一杯となり体力を消耗、疲労したところで韓国に逆転負けを喫し「名波はスタミナ不足、10番の器ではない」と評価される。しかし走力、体力共に優っていた上、背番号で叩かれる理不尽さに業を煮やしていた名波は「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるW杯出場を決めた試合直後に背番号10番のユニフォームをラルキン・スタジアムの観客の少年に投げ渡した。 フランスW杯後、フィリップ・トルシエ就任後も招集される。1999年のコパ・アメリカでは中田英寿が不在であったためトップ下を任されるも惨敗し、トルシエから「名波は一生リーダーにはなれない選手」と酷評された。 同年夏にイタリア・セリエAのACヴェネツィアに移籍。ヴェネツィアは前年まで中心選手であったアルバロ・レコバが移籍し、その穴を埋めるべく左利きの攻撃的選手を求めていた。セリエA開幕戦のウディネーゼ戦では途中出場し、マニエーロの得点をアシストして移籍後初アシストを決めた[3]。10月28日のコッパ・イタリア、ペスカーラ戦での決勝ゴールが移籍後初ゴールとなった[4]。1月23日、第18節のウディネーゼ戦でリーグ戦初ゴールにして唯一のゴールを決めた[4]。24試合に出場したが、監督交代などの影響もあり、フル出場は少なく、ベンチ入りしても出場機会の無い試合や、僅かな出場時間しか得られない試合もあった[4]。コッパ・イタリアでは準決勝まで勝ち進むも、ラツィオに敗れ[4]、リーグ戦は16位に終わりクラブはセリエBに降格。契約上、クラブが降格すれば退団することが決まっていたため、翌年帰国し、磐田に復帰した。 帰国後アジアカップのメンバーに招集され、「イタリア挑戦に失敗した自分を呼んで貰えて感謝している」とコメント。大会では名波を中心にした攻撃が機能し圧倒的な強さで優勝、名波自身もMVPを獲得する。コパアメリカで名波を酷評したトルシエ監督も称賛を惜しまなかった。しかし2001年に右膝半月板を痛め代表から長期離脱。トルシエ監督や国民からW杯までの復帰が待ち望まれる中、10月の欧州遠征(セネガル及びナイジェリアと対戦)のメンバーに招集され同行するも、怪我の再発が確認され試合に出場しないまま再び離脱。2002年日韓W杯の日本代表からも外れる。本人は「怪我をして外れたのではなく、実力がなかったから外された」と自分を戒めたが、実際は怪我からの復調が芳しくなかったためである。 ジーコ監督就任後、初の試合となったジャマイカ戦に招集された(背番号は8番。10番は中村俊輔が着用。)が出場は無く、その後は招集されることはなかった。一方、クラブではその後もジュビロの中心選手となり、2002年のJリーグ完全優勝(1st、2nd両ステージ制覇)にも大きく貢献した。 2006年はチームの若返りを進める山本昌邦監督の下で次第に出場機会を減らし、山本昌邦の監督辞任によって就任したアジウソン監督でも状況は変わらなかった。出場機会を求め、8月15日付で、当時最下位で降格の危機に瀕していたセレッソ大阪へチーム立て直しのために、2007年1月31日までの期限付き移籍を決断。名波加入前はシーズンでわずか1勝だったが、加入後は入れ替え戦出場を争うまでに調子を上げていったが、最終的に降格してしまう。11月26日の大宮戦で、史上23人目のJリーグ通算300試合出場を達成した。 2007年1月16日、磐田から東京ヴェルディ1969へ、2007年2月1日から2008年1月31日までの期限付き移籍をすることが発表された。サッカーダイジェストのインタビューなどでは、2007年シーズンをもって引退する事を匂わすコメントをしていたが、出場機会にあまり恵まれず不完全燃焼であったことや、磐田側からも復帰の要請があったことから2007年12月8日に「2008年シーズンは磐田に現役選手として復帰する」ことが発表された。 2008年11月12日、2008年シーズン限りでの引退を表明。2009年シーズンのコーチ就任は断ったが、「40歳過ぎぐらいに監督になりたい」と、語っている。 現役引退後はジュビロ磐田のアドバイザーを務め、2009年4月5日より、テレビ朝日のサッカー情報番組『やべっちF.C.』のレギュラーになった。また、BS朝日やスカパー!などのサッカー中継での解説も務めている。テレビ朝日での中継時にはピッチ上から解説を行う。2011年のAFCアジアカップの決勝に代表されるように、放送席で解説を務める松木安太郎・セルジオ越後は興奮すると我を忘れてしまうことが非常に多くなるため(居酒屋中継と言われる)、ピッチから冷静かつ的確に解説を行う名波の存在が欠かせないものとなっていた。2012年3月11日、東京ヴェルディ1969時代のチームメイトで栃木SCドリームアンバサダーを務める佐藤悠介が主催した「3.11悠介ドリームズメモリアルゲーム」に選手兼監督として出場した[5]。 2014年9月25日、ペリクレス・シャムスカの後任としてジュビロ磐田の監督に就任した[6][7]。9月28日に行われ初陣となった愛媛FC戦では、前田遼一と8試合ぶりの先発に起用した松浦拓弥の得点で2-0で勝利を収め[8]、同日に2009年よりレギュラー出演していた『やべっちF.C.』に出演し、同番組を卒業した[9]。初戦には勝利したが就任後の9試合を2勝5分2敗の4位で終えたためJ1自動昇格圏には届かず、J1昇格プレーオフ準決勝ではモンテディオ山形に対して後半アディショナルタイムで失点を喫し敗れ、磐田の1年でのJ1復帰を逃した。名波自身の目から見た監督就任時のチーム状況については「個々のレベル・サッカーの質は想定の範囲内だったが、選手たちの勝ちに対する飢えと負けたくないという気持ちがこんなに希薄だとは思わなかった」[10] と就任初年度の感想を述べた。 2015年シーズンは前田、山崎亮平といった攻撃的なポジションを務める選手が移籍し、苦しい流出が続いた[11] が、新加入のジェイやアダイウトン、GKのカミンスキーといった外国人選手の活躍や若手の小林祐希、川辺駿の飛躍もあり、11月24日に行われたJ2最終節大分トリニータ戦に勝利し、アビスパ福岡と勝ち点82と並んだが得失点差で2位となり3年ぶりのJ1復帰が決定した[12]。
来歴
プロ入り前
ジュビロ磐田
ACヴェネツィア
セレッソ大阪
東京ヴェルディ
ジュビロ磐田復帰
引退後
監督就任
ジュビロ磐田
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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