名寄岩静男
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名寄岩 静男

名寄岩のミニブロマイド
基礎情報
四股名名寄岩 静男
本名岩壁 静雄
愛称立浪三羽烏
病気のデパート
怒り金時[2]
生年月日1914年9月27日[1]
没年月日 (1971-01-26) 1971年1月26日(56歳没)
出身北海道上川郡(現:北海道名寄市
出生地は北海道高島郡(現:北海道小樽市[3]
身長173cm
体重128kg
BMI42.77
所属部屋立浪部屋
得意技左四つ、吊り、掬い投げ
成績
現在の番付引退
最高位西大関
生涯戦歴337勝297敗33休(54場所)
幕内戦歴292勝279敗33休(44場所)
優勝幕下優勝1回
三段目優勝1回
敢闘賞2回
データ
初土俵1932年5月場所[1]
入幕1937年1月場所[1]
引退1954年9月場所[1]
備考
金星2個(武藏山1個、千代の山1個)
2013年7月21日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - 1971年1月26日)は、北海道名寄市出身(出生地は北海道小樽市)で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は岩壁 静雄(いわかべ しずお)[1][2][5]。最高位は西大関
来歴
鍼灸師から角界入り

1914年9月27日、北海道高島郡高島村で家伝のを用いた治療業を営む家に生まれる(母は鍼灸師の免許を持っていなかったため正式な開業はできなかったとも伝わる[4])。生後10ヵ月くらいの時に、岩壁家は名寄町に移住し、もう1つの家業である小さな養豚業を営んでいた[4]

6人兄弟の長男である静雄少年は馬にリアカーを引かせて町内の旅館などから豚の餌となる芋の皮や残飯を貰い受けていた。幼少期から体格が良く、街で彼の姿を見かけた人々は、「静夫少年が馬より大きく見え、馬を引いていたように見えた」と語る[4]

名寄中等夜学校時代は昼の重労働の疲れから授業中に居眠りすることも多く、数学や英語を苦手とした。それでも体育は別人のように積極的に参加し、特に柔道は始業時間前に登校して練習するほど好きであった[4]

両親と同じ鍼灸師を目指すべく、1931年の春に上京して東京・両国の東京鍼灸医学校へ進学し、1932年に鍼灸師の免許を取得して帰郷しようとしていたところ、体格の良い岩壁を見つけた立浪から強引にスカウトされた。最初はせっかく鍼灸師の免許を取得して一家を正式な鍼灸院にすることができるところであったため断り、名寄に帰郷することだけを考えた。そもそも相撲に対する知識が皆無であり、両国が相撲の町であることも、立浪部屋の存在も知らなかった[4]。それでも弟子勧誘に対する執念に定評があった立浪が岩壁の父親へ向けて手紙を書いて送ったところ、許可されたことで立浪部屋へ入門した[3]。岩壁を勧誘したのは光石鉄之助[6]という立浪部屋出身の元幕内力士であり、彼は当時既に廃業して両国界隈で商売を行う油屋に転身していたが、「立浪部屋のマネージャー」と言うべきポジションでもあった[4]。入門に際して父からは「一人前の相撲取りになるまで帰ってくるな」と送り出された[4]

1932年5月場所において初土俵を踏むと、部屋の1年後輩で、各段優勝を果たしてスピード出世で追いかけてくる羽黒山をライバル視していた。新入幕1937年1月場所)までは全て名寄岩が先を越していたが、大関昇進争いでついに羽黒山に先を越された。逆に言えば、何人もの部屋や角界の先輩をごぼう抜きにしてきた羽黒山には、三役昇進まで先を譲らなかったことになる。大横綱の双葉山よりも5年初土俵が遅く、各段優勝して破竹の勢いで番付を駆け上がった羽黒山よりも1年早いという微妙な立場が名寄岩を稽古の虫に仕立て上げることになった[3]。なお、立浪は出世争いをする名寄岩と羽黒山に対して、先に大関となった方に娘と結婚させて後継者にすると提案したが、結果的に名寄岩はその後継者争いに敗れている[7]

1938年1月場所は2日目に男女ノ川に一蹴されたが、7日目には武蔵山を得意の左四つから、右上手を引いて軽々と吊り上げ運び出した。右肘を怪我して以降も二枚腰と評される強靭な足腰を誇っていた武蔵山が吊り出されたのは現役中この1番のみである[2]1938年9月の大阪準本場所では11勝2敗で優勝の玉錦と同点の成績を挙げ表彰された[8]

1939年1月場所7日目、この場所4日目に双葉山の連勝を69で止めた安藝ノ海に対していつも以上に闘志を剥き出しにして勝ち、仇を取っている[3]
病との戦い

立浪部屋に双葉山・羽黒山の横綱・大関が存在していたため、名寄岩は関脇で10勝を挙げながら据え置かれた不運もあった[9]が、1942年5月場所で11勝を挙げ、場所後に照國・安藝ノ海が揃って横綱へ昇進したことで、大関前田山ただ一人になることから、1943年1月場所で念願の大関昇進を果たした[9]

新大関の場所こそ9勝6敗と勝ち越すが、その後は連続で負け越すなど不振で、大関在位僅か3場所で1944年5月場所では関脇に陥落した。その関脇でも一度だけ負け越したが(1945年6月場所で3勝4敗)、当時の日本は第二次世界大戦の真っ只中で混乱期に陥っていたことから番付面で幸いにも小結に陥落することが無かった。1946年11月場所で大関復帰を果たすが、糖尿病胃潰瘍腎臓疾患関節炎・神経病などの様々な病気を患い[3]、「病気のデパート」との愛称まで付くほど[9]で、9勝4敗と勝ち越したものの全盛期の活躍は見られなくなった。1947年6月場所ではついに初の幕内全休となり、同年11月場所では11戦全敗で再び関脇へ陥落した[注釈 1]
現役引退?晩年

二回目の大関陥落後も様々な病気・怪我が減る気配は一向に無く、幕内も前頭下位にまで落ちていたが、名寄岩は懸命に土俵を務めていた。1950年5月場所では西前頭14枚目の地位で土俵に上がり、9勝6敗の成績で2度目の敢闘賞を受賞[3]した。1952年9月場所では千代の山から金星を奪うなど健在ぶりを発揮し、再び敢闘賞を受賞した。1954年5月場所千秋楽には、全力士の鑑として日本相撲協会から特別表彰を受けた[7]。同年9月場所を最後に現役を引退したが、若い頃からのライバルだった羽黒山より1年遅い引退となった。最後の土俵となった1954年9月場所千秋楽には40歳と6日で、これはちょうど60年後の2014年9月場所7日目に旭天鵬に更新されるまで、戦後の最高齢幕内出場記録だった[10]

現役引退後は年寄・春日山を襲名して春日山部屋を再興。旧・春日山部屋閉鎖後に立浪部屋預りとなっていた前頭・大昇充宏を育成し、直弟子からは白法山旺三が十両昇進を果たした。


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