名塩雁皮紙
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名塩雁皮紙(なじおがんぴし)は、兵庫県西宮市塩瀬町名塩地区で製造される和紙雁皮紙)である。原料はガンピ(雁皮)[1]で、これに地元で産出する泥土を混ぜて漉くのが特徴[1]

名塩で生産される和紙は名塩紙(なじおがみ)[2][1][3][4][5]、名塩和紙[5][6]とも呼ばれる。「名塩雁皮紙」を「名塩紙」の別名とする説明もあるが[3]、製造者の谷徳製作所では「名塩和紙」を「名塩雁皮紙」以外の和紙の総称(主に和紙故紙を漉き返したもの)と説明している[7]。「名塩雁皮紙」が国の重要無形文化財に、「名塩紙技術」が県の無形文化財に指定されており、「名塩紙」として兵庫県伝統的工芸品に指定されている。
製法と種類「鳥の子紙#名塩鳥の子」も参照

雁皮を主原料とした淡黄色の上質な和紙は鳥の子紙と呼ばれるが、名塩は越前と並んで著名な産地であった。越前ではほかに越前奉書などコウゾ(楮)を原材料とした紙も漉いているが、名塩は雁皮紙のみを漉き続けていたことが特徴である[4]。鳥の子紙の紙質は柔滑で[1]、厚さはさまざまである[1](厚葉・中葉・薄葉の3種とされる[1])。襖の幅である半(約0.9メートル)の間尺に合う(継ぎ目なく貼ることのできる)幅の広い鳥の子紙のことを間似合(まにあい)といい[1][3][8](泥土の混和量の多い鳥の子のことともいう[1])、襖や屏風に利用された[3]

名塩紙は、六甲山に自生する[9]雁皮を原料に、粘料にはノリウツギの皮の抽出液を用い[9]、これに名塩周辺で採取される以下のような泥土(神戸層群第二凝灰岩と呼ばれる地層の岩石微粒子[10])を加えて[9][10]溜め漉き法で仕上げる[9]

東久保(とくぼ)土 - 白[1][3][10]

天子(あまご)土(尼子土[10]とも) - 微黄[1][3]

蛇豆(じゃまめ)土 - 薄褐色[3][10]

カブタ土 - 青[10](青の泥を「五寸土」とする説明もある[3]

これらの泥土は、紙にに特有の色のほか[1]、防虫性[5][3]、耐熱性[3]を加え、シミができにくく変色しないという[2]。防虫性の点から薬袋紙(やくたいし)[3]や茶室の腰張り紙[3]に用いられ、また耐熱性の点から箔打ち紙[3]として使われる。また、日焼けせずに長期保存に耐えることから[2]、江戸時代中頃から[9]近畿・中国地方では[1]諸藩の藩札に用いられた[1][2][9]

21世紀初頭現在は、箔打ち原紙[2]や、文化財修復に用いる生漉間似合紙が主な製品である[2]
歴史「鳥の子紙#名塩鳥の子」も参照

名塩の紙漉きの起源については諸説あるが[9](郷土史研究者の北野昭[注釈 1]によれば、8つの説があるという[6])、越前国越前和紙の産地)から技術が伝わったとされる[2][1]

東山弥右衛門という人物が越前の国で技術を習得し持ち帰ったという説[9]。これが地元では最も広く伝わっており[6]、安政2年(1855年)には紙漉き業者らによって[9]東山弥右衛門を「紙祖」と讃える頌徳碑[注釈 2]が建てられた[6]。弥右衛門は越前の製紙家の婿養子となったが技術習得後は妻子を置き去りにして帰郷[4]、後を追ってきた妻が名塩川で投身自殺したという悲劇的な伝説も伝えられており、水上勉の小説「名塩川」はこれを下敷きとしている[12]。東山弥右衛門が技術をもたらしたとされる時代については、文明年間(1469年 - 1487年)とする説から慶長元和のころ(1596年 - 1624年)とする説まであって定かではない。

文明7年(1475年)に蓮如上人が名塩を訪れた際に[注釈 3]、越前から随行してきた紙漉き職人が名塩に留まって技術を伝えたとする説[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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