この項目では、名古屋と書かれたり「なごや」という音で呼ばれている尾張の場所や、徳川時代以来の城下町や都市、および名古屋という名称について説明しています。
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熱田神宮。名古屋南部の熱田台地の南端に鎮座。熱田社の創建は仲哀天皇元年あるいは646年(大化2年)と伝わり、三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る。この社は古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していた(その後、周辺の干拓によってここは内陸部になった)。尾張国における地方大社として存在感を示しつづけ、中世以降は「日本第三之鎮守」(伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐという意味。『熱田明神講式』)「伊勢神宮に亞(つ)ぐ御由緒の尊い大社」などとされ国家的な崇拝を受けた。 なお織田信長も桶狭間の戦いの当日の朝に清州城から出て4時間ほどでこの神社に到着し、この場所で軍勢を集結させて戦勝祈願を行ってから桶狭間へと向かったという。名古屋城名古屋市の中心業務地区(都心部)
名古屋(なごや、英: Nagoya)は、愛知県西部の地名[1]。濃尾平野の中央部にあり、伊勢湾に臨む[1]。もとは尾張徳川氏の城下町で[2]、尾張国にあった。古くは那古野とも書き、その後名護屋とも書くようになっていた[1][2](表記ゆれがあった)。 この地がどれほど古くから「なごや」という音で呼ばれていたかは定かではないが、旧広橋家本「江家次第」裏書(東洋文庫蔵)にある「建春門院法花堂領尾張国那古野庄領家職相伝系図」に平安時代末期の荘園名として書かれているのが「初見」[3]つまり現在確認されている文書としては最も古いものだとされ、南北朝時代の写本「弘法大使御入定勘決記」(真福寺蔵)の奥書にも「尾張国那古野荘安養寺」と書かれている[3]。蓬左文庫のように、「蓬左」(ほうさ)という別名もあったという[3]。 戦国時代には今川氏がこの地に城を築いた。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊からその城を奪取し「那古野城」と改名した。 1610年 徳川家康がその子徳川義直と清洲城に入り、この名古屋の地を城地と定め、加藤清正ら諸大名に分担させて築城した[4]。そして義直が1616年にこの城に移り(尾張藩主となり)、この地は城下町として栄えてゆくことになった[4]。この地名の表記は、徳川氏によって名古屋城下が開かれた頃から「名古屋」と「名護屋」が併用されたが[4]、しだいに前者に定まったという[4]。 江戸時代には、上方と江戸の中間にある商業都市として栄えた[1]。 1870年(明治3年)名古屋藩監察令により、表記を「名古屋」に統一した[1]。
歴史
地名
名古屋市 - 愛知県の県庁所在地。