名古屋電灯
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名古屋電灯株式会社名古屋電灯が建設した長良川発電所旧建屋
種類株式会社
略称名電、名電灯
本社所在地 日本
名古屋市中区新柳町6丁目4番地
設立1887年(明治20年)9月20日
業種電気
事業内容電気供給事業
代表者福澤桃介(社長)
下出民義(副社長)
資本金3375万円
(うち2100万円払込)
株式数67万5000株(額面50円)
総資産4423万8千円
収入420万6千円
支出237万8千円
純利益182万7千円
配当率年率14.0%
決算期5月末・11月末(年2回)


資本金以下は1920年11月期決算による[1]

1921年(大正10年)10月18日付で関西電気(旧関西水力電気)と合併

名古屋電灯株式会社(名古屋電燈株式會社、なごやでんとう かぶしきがいしゃ)は、明治から大正にかけて存在した日本の電力会社である。愛知県名古屋市に本社を置き、中京地方で事業を展開した。戦前期の大手電力会社のうち東邦電力の前身および大同電力の母体にあたる。

1889年(明治22年)に日本で5番目の電気事業者として開業。当初は小規模な発電所によって市内へ配電するだけであったが、明治末期以降長良川木曽川に大型発電所を建設して大規模化した。1920年代より周辺事業者の合併を活発化し、1921年(大正10年)に奈良県関西水力電気と合併して関西電気となり、翌年九州電灯鉄道と合併して中京・関西九州にまたがる電力会社東邦電力へと発展した。

東邦電力となる前の1918年(大正7年)、名古屋電灯は水力開発部門を独立させ木曽電気製鉄を設立した。同社は1921年に大同電力へと発展する。また特殊鋼メーカー大同特殊鋼も名古屋電灯から派生した会社を前身とする。
目次

1 概要

2 沿革

2.1 設立

2.2 開業

2.3 競合会社の出現

2.4 東海電気の合併

2.5 水力発電への転換

2.6 名古屋電力と名古屋瓦斯

2.7 福澤桃介の経営参加

2.8 福澤の社長就任

2.9 木曽川開発

2.10 鉄鋼業進出

2.11 相次ぐ合併

2.12 政争

2.13 東邦電力発足

2.14 業績推移表


3 供給の推移

3.1 1880・90年代

3.2 1900年代

3.3 1910年代以降

3.4 供給実績推移表

3.5 供給区域一覧

3.5.1 1919年

3.5.2 1921年



4 電源の推移

4.1 第一発電所

4.2 第二発電所

4.3 水主町発電所

4.4 小原発電所

4.5 巴川発電所

4.6 長良川発電所

4.7 八百津発電所

4.8 熱田発電所

4.9 大同電力からの受電

4.10 発電所一覧


5 附帯事業の推移

6 年表

7 本社・営業所・出張所所在地

8 歴代役員一覧

9 社史

10 脚注

10.1 注釈

10.2 出典


11 参考文献

概要 名古屋電灯の広告(1914年)

名古屋電灯は、大正から昭和戦前期にかけての電力業界大手「五大電力」の一つ東邦電力(1922 - 1942年)の前身である。この東邦電力は名古屋市を中心に供給区域を広げた名古屋電灯と、福岡市を中心とする北部九州を主たる供給区域とする九州電灯鉄道が合併し成立した。ただしその成立過程はやや複雑で、奈良市関西水力電気がまず1921年(大正10年)に名古屋電灯を吸収合併して名古屋へ移転の上「関西電気」と改称し、この関西電気が翌年に九州電灯鉄道を合併して「東邦電力」に改称する、という過程をたどっている[2]。したがっていずれの合併でも存続会社となった関西水力電気が東邦電力の法律上の前身会社という扱いになるが、名古屋電灯の方が歴史が長く、加えて規模も大きかったので、東邦電力自身は発祥を名古屋電灯が設立された1887年(明治20年)と定義していた[2]

この名古屋電灯は元は旧尾張藩士族による会社で、1887年設立ののち1889年(明治22年)に開業した。当時すでに東京関西の3都市には電気事業が開業しており、名古屋電灯はこれに続く日本で5番目、北陸地方を含む中部地方では最初の電気事業者となった。開業当初は小規模な火力発電所によって発電所周辺に配電するという程度の事業規模であったが、徐々に拡大し、特に明治末期に長良川木曽川に2つの大型水力発電所を完成させてからは大型化した。その過程で、のちに「電力王」と呼ばれる実業家福澤桃介が株式を買収して進出し、1914年(大正3年)から社長に就任。以後関西電気となるまでの7年間、福澤による積極経営が続いた。

福澤時代の名古屋電灯では、社内に「製鋼部」・「製鉄部」・「臨時建設部」という3つの部門が設置された。うち「製鋼部」は特殊鋼の生産を目指すもので、1916年(大正5年)の工場操業を機に電気製鋼所(後の木曽川電力、製鋼事業は大同特殊鋼の前身)として分社化された。「製鉄部」は製鉄事業の事業化を目指した部門、「臨時建設部」は木曽川・矢作川の水力開発にあたった部門で、あわせて1918年(大正7年)に木曽電気製鉄として分社化された。木曽電気製鉄の設立により電源開発は同社が担い、名古屋電灯は同社より電力の卸売りを受けて配電事業に専念する体制となった。以後名古屋電灯は周辺事業者の合併を活発化させ1921年までに6社を合併し、岐阜県静岡県にも供給区域を広げた。

事業統合の過程で1921年10月、名古屋電灯は奈良市の関西水力電気と合併した。上記の通り存続会社は関西水力電気側で手続上名古屋電灯は解散したが、本社や経営陣は名古屋電灯時代のままで、実質的には名古屋電灯による関西水力電気の合併である。合併によって関西電気が成立したが、同年12月福澤桃介が社長を退陣し、松永安左エ門ら九州電灯鉄道の経営陣と交代した。


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