名古屋電力
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名古屋電灯」とは異なります。

名古屋電力株式会社名古屋電力が起工した八百津発電所
旧八百津発電所資料館
種類株式会社
本社所在地 名古屋市中区前津小林
字上キロメキ44-47・50番地[1]
設立1906年(明治39年)10月22日[2]
解散1910年(明治43年)10月28日[1]
名古屋電灯と合併し解散)
業種電気
事業内容電気供給事業
代表者奥田正香(社長)
公称資本金500万円
払込資本金169万7020円
株式数10万株(額面50円)
総資産170万3962円(未払込資本金除く)
収入2万979円
支出2万979円(償却費含む)
純利益0円
株主数1906人
主要株主A.L.バクナル (2.5%)、草刈隆一 (1.7%)、三浦泰輔 (1.7%)
決算期5月末・11月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1908年11月期決算による[3]
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名古屋電力株式会社(なごやでんりょくかぶしきがいしゃ[注釈 1])は、明治時代愛知県名古屋市に存在した電力会社である。

1906年(明治39年)に設立。木曽川にて八百津発電所岐阜県)を起工し、名古屋市と岐阜県岐阜市に電力供給区域を設定して既存事業者名古屋電灯の競合会社となるはずであったが、1910年(明治43年)に未開業のまま名古屋電灯へ合併された。
設立の経緯起業の中心人物兼松煕

名古屋電力は、八百津発電所建設計画の中から起業された電力会社である。八百津発電所計画は、1896年(明治29年)春、名古屋市の関信賢という企業家が木曽川沿岸を踏査して岐阜県加茂郡での水力発電所建設を企画したことに端を発する[4]。翌年に初めて水利権申請が行われるが、その後出願者の交替や取水地点・発電所地点の変更が多数あり、さらに出願者間の対立もあって長く事業化に結び付いていなかった[4]。こうした中、出願者の1人が加茂郡選出の衆議院議員兼松煕に相談を持ち掛けた[4]。兼松はこれに応えて事業の中心人物として立ち上がり、まず出願者間の対立調停に努め、次いで地元との協議を取りまとめた[4]

地元との協議を済ますと兼松は東京に戻り、岩田作兵衛[注釈 2]ら東京の資本家を計画に引き入れた[4]1904年(明治37年)春、兼松は当時の内閣総理大臣桂太郎の紹介により名古屋で愛知県知事深野一三名古屋商業会議所会頭奥田正香に面会する[4]。すると奥田は兼松ら東京側資本家の計画に賛同し、自ら名古屋側の主唱者となって名古屋の工場経営者を計画に引き入れた[4]。こうして発電所計画は東京・名古屋両財界の折半出資によって事業化することが決まった[4]

1904年7月27日、「名古屋電力株式会社」発起人は岐阜県に対し加茂郡八百津町字諸田に発電所を建設するための木曽川水利権を出願した[4]。発起人は計13名で、東京の兼松煕・岩田作兵衛・桂二郎(桂太郎弟[6])・久米民之助、名古屋の奥田正香・上遠野富之助斎藤恒三白石半助・相良常雄、岐阜県の渡辺甚吉らが名を連ねる[4]。名古屋側の発起人のうち上遠野は日本車輌製造、斎藤は三重紡績(後の東洋紡績)、白石は名古屋電気鉄道名古屋鉄道の前身)をそれぞれ代表する、電力需要家の関係者である[4]日露戦争後の1906年(明治39年)6月23日にようやく水利権が許可されると、同年10月22日、名古屋商業会議所にて名古屋電力の創立総会開催に至った[4]資本金は500万円[4]取締役には発起人から兼松・岩田・奥田・上遠野・白石・斎藤・相良の7名、監査役には発起人の1人渡辺甚吉と名古屋電気鉄道の神野金之助の2名が選出され、社長に奥田、常務兼庶務部長に相良、工務部長に兼松、営業部長に上遠野がそれぞれ就任した[4]。加えて事業の万全を期するため相談役渋沢栄一馬越恭平雨宮敬次郎という大物実業家3名が任命された[4]

本社は初め名古屋市中区新柳町7丁目4番地にあった会社創立事務所を引き続き仮事務所としていたが、1910年(明治43年)4月になって中区前津小林字上キロメキ45番地(後の南武平町3丁目39番地[7])の新築社屋へと移転している[4]
名古屋電灯との関係

会社設立後、1906年11月2日付で逓信省より電気事業経営許可が下りた[4]。許可を得た供給区域は名古屋市とその周辺11町村[注釈 3]および岐阜県岐阜市稲葉郡加納町で、いずれも電力供給のみの認可(電灯供給は不可)であった[8]。名古屋方面については名古屋電灯、岐阜方面は岐阜電気の電灯・電力供給区域とそれぞれ重複する[8]

このうち名古屋電灯については、名古屋電力設立に際し、設立に参加する案があった。具体的には、当時名古屋電灯常務であった三浦恵民が名古屋電力の発起人に加わり、名古屋電力の開業後はここから受電するという構想である[4]。しかし株主中から反対論が生じ、監査役からも株主総会の承諾なく取締役が同業他社の発起人となるのは商法違反との意見が出たため、参加は取り止めとなった[4]。また、名古屋電力社長に就任した奥田正香はかつて名古屋電灯の発起人であった。士族授産の一環として名古屋電灯起業が計画され、1887年(明治20年)9月に認可を受けた際、士族と実業家グループの共同経営という愛知県知事の意向に応えて発起人に加入したためである[9]。しかし奥田らの実業家グループはその後まもなく脱退したため、結局名古屋電灯は士族の会社として発足している[9]


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