名古屋市電
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名古屋市電1401(名古屋市科学館の保存車)

名古屋市電(なごやしでん)は、名古屋市が経営していた路面電車である。名古屋市交通局が事業を行っていた。 1898年(明治31年)に名古屋電気鉄道によって日本で2番目の電気鉄道として開業され、1974年(昭和49年)3月31日に全廃された[1]
歴史
概略特急表示板を掲示した1400形1432

京都電気鉄道(のち京都市に買収されて京都市電となる)に次いで日本で2番目の電気鉄道である、名古屋電気鉄道をその嚆矢とする。同社は市内路線のほかに、アメリカインターアーバン(都市間電車)のような種類の路線として「郡部線」(現在の名鉄犬山線津島線など)と呼ばれる郊外鉄道線も建設した。

しかし1914年(大正3年)9月、不況下における高額の運賃に不満を持っていた市民が「電車賃値下問題市民大会」を催し、大会終了後市民が暴徒化して電車・施設への焼き討ちを行って、郡部線電車のターミナル駅であった柳橋駅名古屋駅のやや南東)が全焼、電車23両が損傷する事件が発生した。これを機に名古屋市でも市内電車の買収に動き、1922年(大正11年)に名古屋電気鉄道から市内線を買収して名古屋市電が誕生した。

なお、買収に先じて名古屋電気鉄道は郡部線を新設会社(旧)名古屋鉄道(後に名岐鉄道と改称し、さらに愛知電気鉄道と1935年(昭和10年)に合併して現在の名古屋鉄道(名鉄)となる)へ譲渡した。そのため市交通局と名鉄はルーツを同じくする。またその経緯から、市買収後もしばらくは名鉄の電車が市電に乗り入れ、柳橋をターミナル駅にしていた。これは新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)開業の1941年(昭和16年)まで続けられた。さらに、名古屋市において別に路面電車を営業していた中村電気軌道新三河鉄道下之一色電車軌道築地電軌といった会社も順次市営化され、1937年(昭和12年)には路面電車の運営が市に一元化されることとなる。

市営後も路線を拡充する。戦後には連接車2600形、無音電車2000形や新機軸の800形など個性ある電車が運転されるようになった。

戦時中の1940年(昭和15年)2月22日、電力の節約のため利用者の少ない停車場を朝夕に限って通過する、「急行運転」が開始された。後には急行運転の時間帯が拡大されるとともに、さらに停車数を削減した「特急運転」も始められている。この特急が廃止されたのは1945年(昭和20年)10月、急行の廃止は1948年(昭和23年)2月25日であった。

また、路線の中には名古屋西郊の田園地帯を単線で走る下之一色線(下之一色電車軌道と築地電軌の買収線)といったものもあり、同線では通票を使用し単線運転を行ったほか、虫害対策のため殺虫剤を散布する専用車が存在し、地下鉄東山線開業前には第三軌条を臨時に敷設して同線車両の試運転も行われた。

その他、市では1943年(昭和18年)よりトロリーバスも運行していたが、試行的であったことや第5回国民体育大会瑞穂区で開催されることになったため、1951年(昭和26年)にバスと市電に転換して全廃となった(名古屋市営トロリーバスも参照)。

1960年代半ばから電力料金や設備維持費が増加し、経営を逼迫するようになる。また自動車の増加に伴い定時運行が困難となったため、市では地下鉄網を整備する代わりに市電を撤去することとなった。1974年(昭和49年)、市電は全廃された。現在は、名古屋市交通局日進工場の一角に「レトロでんしゃ館」があり、当時使用されていた電車3両が保存展示されている。

市電の廃止が進められた1969年から1972年にかけて、余剰となった車両80両を人工魚礁として伊良湖岬沖に沈めたことが記録として残されており、2000年には『そこが知りたい 特捜!板東リサーチ』、2023年には『千原ジュニアの愛知あたりまえワールド☆?あなたの街に新仰天!?』でそれぞれ海底に設置された市電車体の一部が潜水撮影によって確認されている(2000年の取材時に引き揚げられた部品は市営交通資料センターに保管・展示された)[2][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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