名古屋市立丸の内小学校
丸の内小学校外観。旧名城小学校の敷地・校舎を利用している。
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度10分39.11秒 東経136度54分14.05秒 / 北緯35.1775306度 東経136.9039028度 / 35.1775306; 136.9039028
名古屋市立丸の内小学校(なごやしりつ まるのうちしょうがっこう)は愛知県名古屋市中区丸の内三丁目に位置する市立小学校。[1] 2023年(令和4年)に名城小学校と御園小学校を統合し新設開校した。[1] 校舎・敷地は名城小学校の校舎・敷地を引継ぎ利用している。 名古屋城天守閣や本丸を含む名古屋城全域が学区に指定されている。しかし名古屋城内南側三の丸地区は県庁、市役所、裁判所等が集中する官庁街となっており居住者はほぼいない。[2] その為大概の通学者は、名古屋城外南側のエリアである丸の内や伏見(錦)などオフィスが集中するエリアに住民票を置いてる者が通学する。[3] 卒業後進学中学校は名古屋市立丸の内中学校である。丸の内中学校は丸の内小学校の学区域が全く同じである為、特段の事情無ければ全員同じ学校に進学する事になる。[3] 丸の内小学校は名古屋の小学校で最も歴史系譜が長い小学校である。
概要
歴史
明治維新・義校として設立
名古屋藩は明治維新後、藩校明倫堂を改革して「小学」を設け、庶民にも門戸を開こうとした。しかし、士族と庶民の間の意識の隔たりもあり、結局は士族子弟の学校となった。廃藩置県により名古屋県となった後の1871年(明治4年)9月、県は一般庶民の学校として民間有志による「義校」の設置を奨励した。1871年(明治4年)10月、名古屋で最初の義校として第一義校が設立された。これが丸の内小学校の系譜の始まりの学校である。[4]
小学校令で尋常小学校へ。国民学校を経て太平洋戦争の終戦
愛知県は明治6年(1873)に小学校の設置にとりかかり400を超える義校を整備、拡充して小学校へと切り替えていった。その際に第一義校は菅原尋常小学校となる。[4]
菅原尋常小学校の近隣に園町、明倫、七町(後に本町)、八重、大成、久屋尋常小学校が設立。なお大成尋常小学校は後に大成尋常高等小学校を経て国民学校となる。
1941年(昭和16年)- 国民学校令で全て国民学校となり菅原国民学校となる。この時に近隣の園町、明倫、七町(後に本町)、八重、久屋尋常小学校、大成尋常高等小学校も同時に国民学校となる。
戦後・名城小学校と御園小学校時代
1947年(昭和22年)4月 - 菅原国民学校は近隣に存在した園町、明倫、七町(後に本町)、八重、大成、久屋国民学校と合併し名城小学校として開校した。