名古屋大空襲
[Wikipedia|▼Menu]
空襲後の名古屋市街1944?45年 "Hesitation" Upwind「ためらいの向かい風」ロナルド・レーガンが語る名古屋爆撃任務、アメリカ陸軍航空軍第1映画部隊トレーニングフィルム (英語)

名古屋大空襲(なごやだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期、アメリカ軍名古屋市に対して繰り返し行った空襲の総称、もしくはそのうち特に市街地を標的として大規模に行われたものをいう。後者においては、中心市街地が罹災した1945年昭和20年)3月12日名古屋駅が炎上した3月19日、または名古屋城を焼失した5月14日の空襲などを指す。鉄道が被爆した。
概要

明確な定義はないため、名古屋に対するすべての空襲を総称して大空襲と呼ばれる場合も多く、また一宮市半田市に対するものなど名古屋近郊への空襲も便宜的に含める場合もある。1945年昭和20年)6月9日熱田区愛知時計電機船方工場・愛知航空機船方工場周辺に行われた空襲は熱田空襲と呼ばれる。
名古屋への初期の空襲米国の戦略爆撃調査の記録:対象地域別の軍事目標フォルダ:日本:名古屋地域(1944年7月6日)

1942年(昭和17年)4月18日アメリカ陸軍航空軍B-25爆撃機によるドーリットル空襲が行われ、名古屋にも同爆撃機2機による初の空襲があり、死者8人、負傷者31人の被害を被った。

1944年(昭和19年)7月、サイパン島などマリアナ諸島をアメリカ軍が制圧し、ここが以後の日本本土空襲の基地となった。

1944年(昭和19年)12月7日昭和東南海地震が東海地域の工場群に大きな損害を与えてから6日後[1][2]の同年12月13日、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機90機により、日本航空用発動機生産高の4割以上を生産していた東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場(三菱発動機第四工場、現在のナゴヤドーム(バンテリンドーム ナゴヤ)及び名古屋大学大幸医療センター付近)に対する初の本格的空襲が行われた。天候等の関係から爆弾は思うようにこの工場に命中せず、アメリカ軍は翌1945年(昭和20年)4月7日まで執拗に爆撃を繰り返し[3]、7回の爆撃で工場を壊滅させた。工場に命中しなかった爆弾は周辺の民家[注 1]に着弾し、多くの民間人が巻き添えになって死亡した[5]

また、1944年(昭和19年)12月13日には「東洋一の動物園」と謳われた千種区東山動物園においても、爆撃で破壊された飼育施設から逃げ出さないよう多数の猛獣類が殺処分された(戦時猛獣処分)。東山動物園では他の動物園で猛獣処分が始まってからも殺処分を拒んでいたが、警備に協力していた猟友会の強い要求を受けて殺処分に至った[6]
激化した1945年の空襲炎上する名古屋駅(1945年3月19日)。屋上には高射砲の陣地があったが、全く届かなかった。

空襲は、当初は日中の高高度戦略爆撃により軍関連の工場や名古屋港などの産業施設へ通常爆弾による精密爆撃を中心に行われていたが、命中率の低さから成果を上げられず、1945年(昭和20年)1月にカーチス・ルメイが第21爆撃集団司令官に着任してからは、焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が始まり、3月頃からは深夜の空襲が多くなった。

3月12日未明、B-29爆撃機200機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、105,093人が罹災した。死者519人、負傷者734人に上り、家屋25,734棟が被災し、市街の5%が焼失したとされる。

3月19日午前2時頃、B-29爆撃機230機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、151,332人が罹災した。死者826人、負傷者2,728人に上り、家屋39,893棟が被災した。中区中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年(昭和12年)に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅の焼け焦げた姿が遠くからでもよく見えたという。

5月14日、B-29爆撃機440機による空襲で旧国宝名古屋城が炎上、家屋21,905棟が被災した。66,585人が罹災し、死者338人、負傷者783人に上ったが、これ以降に撃墜されたB-29の搭乗員は、戦時国際法違反(非戦闘員に対する無差別爆撃)の戦争犯罪斬首死刑が執行されている[7]6月9日には熱田空襲が行われ、愛知時計電機・愛知航空機の社員や動員学徒を含む2,068人の死者を出した。7月26日エノラ・ゲイによる八事日赤病院付近への模擬原爆(パンプキン爆弾)投下[8]を最後に63回の空襲が行われ、B29の来襲は2,579機に達した。投下された爆弾の総量は14,000トンに上り、被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸に及び[9]、名古屋市は日本の他の大都市と同様に壊滅的に破壊された。
戦災復興事業

第二次世界大戦後の1945年12月に市の有織者の復興調査会が「大中京再建の構想」を発表した。この方針は30項目からなり、「主要な幹線道路は50m以上」、「道路の付属物は地下に埋設」、「東西南北2本の地下鉄を設置」、「国鉄と私鉄は地下か高架に」、「国民(小)学校に隣接し、同規模の公園」などとし、「焼け跡の墓地は一定区へ移転整理」などが記されていた。それにより焼け野原と化した名古屋市の中心部での都市再建では、戦後の大規模な区画整理事業により、まず道路基盤と公園用地確保による整備された都市造りに力を入れた。道路造りや公園と住宅地を造る為に中区・東区・熱田区の中心部を中心に名古屋市内の約278ある各寺院の境内地に備わっていた18万9千基の墓地を全て平和公園に移転させ焼け残った多くの寺神社の境内が縮小された。更地同然となった名古屋市の中心部では空襲での火災被害の境遇から、火災の延焼を防ぐため、また市民の避難場所の為、また自動車社会の到来に合わせる為に、100m道路と呼ばれる広い道路の久屋大通若宮大通の他、道路整備などが造られた。公園緑地の整備と、鉄道沿線整備と駅前広場、居住環境の整備など、インフラ整備を中心に将来の名古屋市が200万人都市となるように都市再建をしていった。

名古屋市は都市としての個性と魅力が欠けると言われる事がある。しかしながら、都市景観の魅力に欠けるのは、数多くあった歴史的遺産と古い町並みの大半が空襲による戦災により焼失したことが大きく影響している。さらに戦後名古屋市が進めた戦災復興事業によって、市域の7割近くが区画整理、耕地整理で整備され、元の古い街並みを大きく変えて機能的で効率的な街造りを推進してきた事が大きいと指摘されている。
被害状況名古屋市の被害 - 第21爆撃集団ミッション174号と176号 1945年5月14日、17日名古屋 防空関係資料・全国主要都市戦災概況図・昭和二十年十二月

名古屋市の全市域約1万6000haの約24%に当たる約3850haが焦土化したとされる。特に東区中区栄区熱田区の50%から60%が焼失されたとされ、都心部の公共建物や繁華街は壊滅的な打撃を受け、市の中心部は焦土と化した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:101 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef