名人
訳題The Master of Go
作者川端康成
国 日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出
八雲版(未想熟版)
「名人」-『八雲
八雲版(未想熟版)
『哀愁』 細川書店 1949年12月10日
41章版定本(完成版)
『川端康成全集第14巻 名人』 新潮社 1952年9月30日
受賞
第6回菊池寛賞を受賞(1943年)
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『名人』(めいじん)は、川端康成の長編小説。1938年(昭和13年)の6月26日から12月4日にかけて打ち継がれた21世本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を元に小説の形にまとめたもので、川端文学の名作の一つとされている[1]。秀哉名人没後の翌々年の1942年(昭和17年)から本格的に書き出され、途中の中断を経て十数年がかりで完成と成った[1][2][3]。
家元制最後の本因坊秀哉の人生最後の勝負碁の姿を見た川端自身が、観戦記者からの視点で「不敗の名人」の敗れる姿を「敬尊」の念を持って描いた記録小説で、名人の生死を賭けた孤高の敗着に「古い日本への挽歌」、芸術家の理想像を重ねた作品である[1][4][5][6]。女性を描くことがほとんどの川端作品の中では異色の作品である[6]。 川端康成は、1938年(昭和13年)に『東京日日新聞』(7月23日号-12月29日号)に「本因坊名人引退碁観戦記」を連載した後、1940年(昭和15年)1月の本因坊名人死去を受け、「本因坊秀哉名人」を雑誌『囲碁春秋』8月号から10月号まで掲載した[2][7]。しかしこれは、川端の病により中断となった[7]。 川端は2年後の 1942年(昭和17年)から新たに作品を書き始め、終戦をまたいで書き継ぐが一旦中絶し(未想熟版)、これに満足しなかった川端は稿を改めて1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)にかけて各雑誌に断続的に分載した(完成版)。その経過は以下のようになる[2][7][8]。 未想熟版(プレオリジナル)
発表経過
1942年(昭和17年)
「名人」(序の章で中断) - 『八雲
1943年(昭和18年)
「夕日」 - 『日本評論』8月号と12月号 ※第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞。
1944年(昭和19年)
「夕日」(未完) - 『日本評論』3月号
1947年(昭和22年)
「花」(「名人」と同じ。未完) - 『世界文化』4月号
1948年(昭和23年)
「未亡人」 - 『改造』1月号
この八雲版(未想熟版プレオリジナル)の『名人』は、1949年(昭和24年)12月10日に細川書店より刊行の『哀愁』に収録され、1950年(昭和25年)5月に新潮社より刊行の『川端康成全集第10巻 花のワルツ』(全16巻本)に収録された。なお、「未亡人」は、本因坊名人の未亡人の死を書いた短篇で、刊行時に取り入れてられていない[2]。
完成版
1951年(昭和26年)
「名人」 - 『新潮』8月号
1952年(昭和27年)
「名人生涯」 - 『世界』1月号
「名人供養」 - 『世界』5月号
1954年(昭和29年)
「名人余香」- 『世界』5月号
定本『名人』
完本の『名人』と称されているものには2種類あり、上記の完成版の「名人」「名人生涯」「名人供養」の3篇をまとめた全41章と、この3篇に「名人余香」を加え、4篇をまとめた全47章(先の41章目は完全に取り払っている)がある。「41章版」は、1952年(昭和27年)9月30日に新潮社より刊行の『川端康成全集第14巻 名人』(全16巻本)と、1960年(昭和35年)12月刊行の『川端康成全集第10巻 名人』(全12巻本)に収録された。「47章版」は、1954年(昭和29年)7月10日に文藝春秋新社より刊行の『呉清源棋談・名人』に収録された。この「41章版」と「47章版」のどちらを定本にするかは、川端研究者により意見が分かれており[6][9]、未だに決着がついていない[6]。「41章版」を定本とする派は、「47章版」で出した本が『呉清源棋談・名人』しかないところから、川端自身が「41章版」を重んじ評価していたと主張し[6][9]、「41章版」の終章の方が緊迫感のある「動」で終わり、筆が冴えているとしている[6]。「41章版」の文庫版は新潮文庫より刊行されている。また、観戦記他、囲碁に関連する諸作品については、1981年(昭和56年)8月刊行の『川端康成全集第25巻』(全37巻本)に収録されている。
翻訳版は、エドワード・サイデンステッカー訳(英題:The Master of Go)、閔丙山訳(韓題:Myeong In)、フランス(仏題:Le maitre, ou le tournoi de Go)、セルビア・クロアチア(題:Vellemajstor)など世界各国で行われている[10]。 1940年(昭和15年)1月18日朝、数え年67歳の第21世秀哉名人は熱海のうろこ屋旅館で亡くなった。私はちょうどその日の前日に行われた「紅葉祭」(尾崎紅葉『金色夜叉』の「今月今夜の月」を記念したもの)に出席するために熱海を訪れており、秀哉名人が亡くなる2日前には名人と将棋をした。名人の訃報を聞き、駆けつけた私は、遺族の依頼により名人の死顔の写真を撮った。私は出来上がったその写真を眺めながら、一昨年1938年(昭和13年)6月26日から12月4日にかけて観戦記者として秀哉名人の引退碁の勝負を見守った時のことを回想する。 30年の上、「黒」を持ったことがなかった「不敗の名人」であった秀哉名人が迎えた引退碁は、「封じ手」という名人が初めて経験する規則であった。すべて規則ずくめ、芸道の雅懐も廃れ、長上への敬恭も失われ、相互の人格も重んじないかのような今日の合理主義に、名人は生涯最後の碁で苦しめられたと言えぬでもなかった。
あらすじ