同盟休校
[Wikipedia|▼Menu]
1930年に旧制佐賀高等学校で発生した同盟休校

学校騒動(がっこうそうどう)は、学校において発生する騒動紛争。学校紛擾(がっこうふんじょう)とも言う。
概要

学校騒動は様々な原因で発生し、その目的・要求内容も様々であり、典型的な例は存在しない。教育方法・管理教育方針、設備授業料等の教育環境、教員人事、学生の処分、などへの学生生徒児童の不満。学生生徒が学生自治を求めたり政治問題への意識、管理者と教職員の紛争、教職員内の紛争、などから発生した。おおまかに学校側管理者教職員内部の騒動、学校と外部との騒動、学校側管理者・教職員と学生生徒児童との騒動、学生生徒児童間の騒動・紛争に分けられる。手段も様々であり同盟休校(一部施設を占拠篭城させることも含む)がとられた事が多い。学生運動に接続することも多かった。戦前に使われたことが多い用語で、戦後学園紛争に近い。

祭り感覚で行われたり参加した事も多かった。高野陽太郎は戦前の日本人が必ずしも集団主義的ではなく個人主義的面も多くあった例として学校紛擾を挙げている。
要求内容

学校騒動の発端は複合する場合も多く、要求内容が複数あるのが多かった。以下の分類の大部分は伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』「第5章 学校騒動」に依った。
学生の自治要求・管理主義への反発・学生処分への反発

学生自治組織・弁論新聞文芸への干渉への反発。社会科学研究の自由の要求。校友会学友会学生寮応援団運動部制度・選手制度などへの自治・改革要求。など学校生活全般への管理統制への反発。

また、学生の処分への反発で、左傾への処分、不穏当記事、異性問題、カンニング暴力事件などの処分へ反発した。
教育環境や学校経営への不満

教育と環境への不満。教授陣、カリキュラム教育方法施設・設備の不備、卒業資格問題、実態に反した誇大宣伝、万年ノート、出席制度、資格指定校認定を求めて、試験の難解さ、伝染病のため試験延期、教員と生徒との醜関係、自校の大学昇格、

また、学校経営者の営利主義への反発で、授業料値上げ、寄付金、各種手数料収賄による進級、教員による病院経営に没頭、などの原因がある。
管理者・教職員層での内紛

経営の主導権をめぐる管理者層の内紛、学閥に基づく教員層の内部対立、管理者に不満を持つ教員層の反抗。

また、教員の人事異動や処分への反発で学生が不満を持ち撤回を求めたりや留任運動を起こした。
学外の政治問題

軍事教練への反対・抗議運動、滝川事件への抗議、学内への警察権進入への抗議、などがある。
学校と外部の対立

東京高商と文部省の対立、経営母体と大学の対立、などの決着を求めて
学生間の対立(個人的対立を含む)

その他

早慶戦入場券の配分、野球部内の紛擾の解決
手順

手順は騒動毎に差異があり典型は存在せず一概には言えない。以下、伊藤がまとめた代表的な一例を述べる。一部の学生の不満から全校による学生大会を開催し要求事項の提出。代表者による学校当局との交渉するが多くは決裂し同盟休校に突入。学生寮校舎に占拠・籠城する。あるいは校外に本部を設ける。昭和期には組織が細かく分化し1932年拓殖大では「各クラスより実行委員をあげ会計、警備、炊事、交渉、衛生の各係を定め…」1932年高松高商では「籠城組は統制部、父兄部、新聞係、衛生係、会計係等の部署を定め…」ている。騒動では学校側とともに宣伝合戦を繰り広げた。檄文も飛び交った。大規模校では「管理者卒業生父母、教員、学生らの間の複雑な合従連衡がみられた」。対して学校側では臨時休校の措置をとり首謀者の処分をとるが収束しない場合が多く、調停者が出てくる。卒業生の著名人・有力者や地方の名士ら、果ては文部省が仲介に当った。長期化した場合には学生の中から「終息を望む意向が強く顕在化」した事も多かった[1]。事件後は首謀者らは処分される可能性が高かった。

また、太宰治の『学生群』では、手順は、授業を拒否しクラス会を決行し生徒大会実行委員を2名ずつ選挙。実行委員30名・級長30名・各部活動1名ずつ、で準備会を開く。生徒大会で決議文を作製し10人が交渉委員となり相手方に手交、決裂し休校が始まった。実行委員会(本部、最高幹部会)を設け綿密に打ち合わせる。クラス会での意見を本部に報告したり本部から指令が来た。教師も反ストライキ派の学生生徒を使い切り崩しを試みたり妨害したりした。
歴史

明治期に始まった。昭和初期にピークを迎え「学校騒動慢性化時代」と呼ばれた[2][3]
事例
教職員・管理者の内部対立の事例

※学校側教職員内部の対立にさらに学生生徒児童を巻き込んだ事例も含める。法政騒動を報じる『東京朝日新聞』(1934年1月7日付朝刊15面)

美術学校騒動 -

早稲田騒動 - 1917年天野為之学長の学校運営に不満を抱く教職員らが高田早苗前学長の復職を画策したことに学生・校友らが反発。騒動の模様は新聞で連日大きく報じられた[4]

境野事件 -

法政騒動 -

東北学院高等学部教授免職問題 - 1931年6月、角田桂嶽教授の免職をめぐって理事会と教員たちが対立[5]

国体明徴論文掲載拒否事件 - 1936年-1937年同志社大学法学部助教授野村重臣の論文が『同志社論叢』に不掲載となったことで法学部内の左右両派の対立が激化し、憲兵司令官中島今朝吾が介入する事態となる。

教授侮辱事件 - 1938年11月、明治大学指導局長松室孝良(予備役陸軍少将)が、明大には学問の蘊奥も大学としての資格もないとの訓示を行ったことで教授らの反発を招き、木下友三郎総長が松室の代わりに教授会で謝罪されられた[6]

学校と外部の対立の事例

京都帝国大学 -

東京高等商業学校東京商科大学 - 1908年から1909年にかけて東京高等商業学校と文部省との間の紛争で申酉事件と呼ばれる。犬丸徹三も参加。1931年には政府による予科および専門部廃止をめぐり教授・学生・如水会と対立し籠城事件が起きた。

教職員・管理者と学生生徒児童との対立の事例
旧制大学
文部省に押し寄せた明大生
植原・笹川事件立教大学チャペル事件(『東京朝日新聞』 1936年7月2日付夕刊2面)

東京医学校 - 1875年11月入学した北里柴三郎が設立・主将をした結社の「同盟社」が演説会、出版、スポーツ大会、ストライキの指導、をした。

東京帝国大学 - 1926年。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:116 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef