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やノートページでの議論にご協力ください。同人ゲーム(どうじんゲーム)は、同人(同好の士の集まり)により確立された、もしくはそれに由来する作品発表・流通形式のコンピュータゲーム(通販・即売・自販機/ソフトベンダーTAKERU・ショップ委託・オンライン/デジ同人等)。実際の製作者が同人か個人かは問わないことが多い。「同人ソフト」「インディーゲーム」の一種。
同人ゲームで使用されるBGMが「同人音楽」として扱われるなど、他の同人活動との関連性もある[1]。 コンピューターの同人・投稿・オンラインソフトのゲームは歴史的経緯よりそれぞれ独立・対等な概念として定着していたが、1990年代半ば以降、インターネット普及に伴う同人ゲームのネット進出で住み分けが崩れる等様々な要因での意で使われることが増え、またそれに伴う軋轢も生じている。 個人レベル(1人?数人)でのコンピューターゲーム制作の歴史はパーソナルコンピューターの黎明期(1970年代末期)よりも、さらに以前のワンボードマイクロコンピューターの時代にまで遡る。 元々、個人用のコンピューターは技術者やマニア向けのプログラム製作・学習の道具であり、市販ソフトも徐々には増えて行くものの、しばらくは「プログラム制作に興味のないパーソナルコンピューターユーザー」というのは考えにくい時代であった。ゲーム制作目的の者も多く、特に『スペースインベーダー』(1978年)のブーム以降は大きく増えている。 ただし、同人ソフト・同人ゲームを名乗る自主流通系ソフトが現れるのはしばらく後のことである。 理由としては、まず業界がアマチュア制作ソフトの流通・発表を積極的に支えたため、漫画界のように「同人サークルが集まり流通ルートを切り開く」必要性が薄かったことがある。 漫画雑誌の投稿募集がほぼプロ予備軍の発掘目的であるのに対し、パーソナルコンピューター雑誌の場合は、初期の市販ソフトの乏しさを補う意味もあって、市販化を視野に入れたものから初心者でもアイデア次第で勝負になるショートプログラムまで、幅広い発表の場が用意されていた。雑誌には黎明期の4大誌(『I/O』『 月刊アスキー』 『月刊マイコン』『RAM』)や『マイコンBASICマガジン』、『MSXマガジン』などがある。 また、後に大手となったゲームメーカーも、自社のパーソナルコンピューター販売部門の顧客が開発したゲームソフトを買い取って販売したり、エニックス(現スクウェア・エニックス)のように賞金つきのゲームプログラムコンテストを開催して公募したゲームを市販するといった事業形態から始まったメーカーも多く、プロ・アマの境目自体も曖昧であった。 もっとも自主流通自体が、パーソナルコンピューター普及率の低さに加えて機種間の互換性がほとんどなかったため、紙媒体に比べると格段に難しかったという事情もある。 1980年代中盤になると、8ビット時代の主力機種が出揃ってフロッピーディスクも普及すると、同時期にファミリーコンピュータの大ヒットでコンピューターゲーム人口が大幅に増えた影響もあり、パーソナルコンピューターのホビーユーザー数もゲームソフトの本格的な自主流通が可能な数になって行く。 また、ゲーム業界の成長に伴い市販ソフトの開発規模が個人レヴェルから多数のスタッフの参加する大規模なものになったことに加え、当初はほぼ野放しだった市販ソフトの表現内容についてもさまざまな規制が行われるようになり、メジャーメディアである市販ソフトに対するインディーズとしてのソフト制作と流通の動きも出てくる。 最初に同人ソフトの名称を使ったのは1984年のコミケットにおける、サークル「帝国ソフト」の『人魚の涙』だとされる。ただし、最初にコミケにゲームソフトが持ち込まれたのはその前年のC25における、帝国ソフトの『ニ・コ・ニ・コ女の子パズル』(ちなみにこのソフトは、1985年にASCIIから『Carrot』というタイトルで市販された)。しかし、他の大半の同人漫画即売会では「その場で内容確認ができない」などの理由から同人ソフトは持ち込めなかった(→同人ソフトを参照)ため、1988年4月からは同人ソフトやハードが対象の即売会「パソケット」が開催されることになる(なお、ノート型パーソナルコンピューターを持ち込んで内容を確認することで、この問題は解決されている)。 通販形態での自主流通の開始時期は不明だが、前述の即売会持ち込み不可の問題もあって、初期には有力な手段であった。 1992年には、ソフト自販機『ソフトベンダーTAKERU』での同人ソフト取り扱いが始まる。市販化とは違う、商業ルート上の同人ソフト流通の先駆けである。 1980年代中盤はパソコン通信の黎明期でもあり、場所によっては同人ソフト・ゲームの話題や情報の交換も活発に行われた。 また、通信上でのソフトウェアの流通(オンラインソフト)も始まる。しかし、これは同人系とは独立して成立したものであり、当時はまず混同されることは無かった。というのも、当初の通信速度(300?1200bps程度)と従量課金下でフロッピー1枚分(2DDで約720KB、2HDでは約1.44MB)の容量を流すのは非現実的(最悪だと1時間半近くかかる計算)であり、また金銭のやり取りの不便さ等から、後期に少数の体験版等が流れたことを除けば同人(および商業)ソフトの流通路にはなり得ず、結果的にネットとリアルでの住み分けが為されたからである。 このため、オンラインソフトは小容量で無償のものを中心とした独自の文化を築くことになる。もっとも同時期のパーソナルコンピューター用同人や商業ソフトに比べると小容量とはいえ、同時期の家庭用ゲーム機並の容量は使えたため、ゲームボリュームとしてはかなりの大作も作られている。 それでも、有償のオンラインソフトが一般化するのはWin3.1(1992年)の普及時期まで下る。金銭のやり取りの不便さに加え、開発費はともかく一旦アップロードしてしまえば製作者側に通信費は掛からず、むしろダウンロードする側が通信費を負担する形になるオンラインソフトでは、多額の印刷費+様々な流通経費の掛かりがちな同人誌に比べると、金銭負担の上乗せは理解を得にくかった。有償のオンラインソフトを指すシェアウェアという語も元々、「儲ける気は無いが、開発費を一部負担(シェア)してほしい」というような意味合いである。 さらに、当時のネットワークはいくつかの大手商用ネットと無数の草の根BBSに分かれ物理的に繋がっていなかったので、オンラインソフトの転載が広く行われ、転載の可否やその条件は重要な要素であり、これも無償ソフトの転載に比べ「宣伝活動」のイメージが付きまとう有償ソフトに不利な環境でもあった。 なお、同人ソフトのネット流通は容量的に無理でも、その逆にオンラインソフトをまとめて同人ルートで販売するというケースはあった。これはゲームよりむしろCGや音楽データで顕著である。 あるいは市販ソフトが撤退した機種、特にMSXやX68000では機種存続のために同人・投稿・オンラインソフト作者間の協力や、制作の掛け持ちが行われ、その一環としてまだ(パソコン通信の普及率が低かったために)マイナーであったオンラインソフトを、同人ルートを通して紹介するということも行われた。 黎明期のパーソナルコンピューターはプログラミングによってソフトウェアを自作出来る、もしくはそれを学ぶ意思のあるマニア向けの道具であったが、パーソナルコンピューター市場拡大に伴い、市販ゲームを遊ぶだけのユーザーも増えてきた。しかしその中にも、できればゲームを作ってみたいと思う者は少なくなかった。 その需要に応える形で、アスキーが1988年にツクールシリーズの元祖『アドベンチャーツクール』、1990年に『RPGツクール』の第一作を発表。さらに1995年からは、アスキーは「アスキーエンタテインメントソフトウェアコンテスト」を開き、グランプリ賞金1000万円を掲げ、ツクールシリーズを利用したゲームを広く募集した。また、『チャイムズクエスト』というRPGツクールで制作した、松尾芭蕉と河合曾良を主役とした同人RPG『蕉風』がソフトベンダーTAKERUで市販された。
歴史
パーソナルコンピューター(マイクロコンピューター)黎明期(1970年代?)
パーソナルコンピューター市場拡大と「同人ゲーム」の誕生(1980年代中盤?)
同人ゲームと市場の誕生
パソコン通信と同人
『ツクール』シリーズの登場
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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