同一性
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同一性(どういつせい)とは、主に英語の「identity」を翻訳した語であり、多義語である。日本語に即して説明すれば、ひとくちに同一性といっても二種類の意味があり、「Aは何者なのか」という意味での同一性と、「AとBは同じだ」という意味での同一性がある。さらに以下のように細分化して言い換えられる。

「Aは何者なのか」 →「定義」「本質」とも言い換えられる同一性

「私は何者なのか」→自己同一性(identity、self identity、カタカナで「アイデンティティ」というときは大抵これ)

「私の性別は何なのか」→性同一性(gender identity)



「AとBは同じだ」 →「定義」「本質」とは言い換えられない同一性

「AとBは同一個体だ」 →数的同一性[1](numerical identity)、不可識別者同一の原理(英語版)

「過去のそれと現在のそれは同一個体だ」 →通時的同一性(diachronic identity)、テセウスの船の同一性

「過去の私と現在の私は同じ私だ」 →人格の同一性、自己斉一性、自己の連続性、解離性同一性障害の同一性



「AとBは同一個体ではないが「同じ」だ」 →質的同一性[1](qualitative identity)、または同一性の問題というよりメタファーなどの問題

「著作物において引用元と引用後が同じ内容だ」を意味する法律用語 →同一性保持権(right to integrity)


エベレストチョモランマは同じだ」 →「意義と意味」に関する同一性

「私の車とあなたの車は同じだ」→「タイプとトークン」に関する同一性

「AとAは同じだ」を意味する論理学用語 →同一律(英語版)

この記事では、上記すべてをひっくるめて扱う。なお、同一性の対概念として差異性がある。
語源

英語の「identity」の語源は、ラテン語の「idem」に由来する。この「idem」という語の意味は、英語の「the same」におおよそあたる[2]。このことから、英語の「identity」は「sameness」とも言い換えられる。
同一性と哲学「人格の同一性」も参照

同一性は西洋の伝統としての哲学上、もっとも重要な概念のひとつであり、同一性によって、あるものは存在ないし定在として把握される、あるいは定立される。

哲学では、自分自身と一致しているべきもの、自己同一的に存在するもの、他のものに依存して存在するのではないものを実体(羅:substantia)という。

また、伝統的には「それは何であるか」という問いに対する答えとして与えられるものとして、現実に存在するあるものが、それ自身と同一であるという場合、そのために最低限持っていなければならない性質を考えることができる。このような性質を本質(ほんしつ)(希 ουσια (ousia), 羅 substantia / essentia)という。これに対して、本質の対語である実存(existentia)とは、外に立ち出たものex-sistereの意であり、現実に存在していることをいう。

または、同一性とは他のものから対立区分されていることで変わらずに等しくある個の性質をいう。そのような対立区分される個がないという意味での差異性の対語。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}このときの差異性とは従って万物斉同性とも無とも言える。区分としての差異性との間を区分しておかないと正しく理解できない。古代ギリシャが確立した論理学には同一律があるが、それは同一性の律なのである。その同一性は常に個の同一性なのである。従って、西洋的に論理的であると必然的に(個の存在と連動する)同一性志向になる。インドや東アジアの伝統はこの、同一性と一体の論理を志向しない。[独自研究?]

特に自己同一性(self-identity)というとき、あるものがそれ自身(self、ギリシア語のautosに由来)と等しくある性質をいう。
古代哲学

パルメニデスは、「一なるもの」(to hen)を実体として考えた。これは、「あるものはあるし、ないものはない」という考え方によるもので、あるものが他のものに変化するという生成変化は、これを実体に帰することはできないという思想を表現したものである。

これを受け継いだプラトンイデア説では、感覚によって捉えられた生成変化する現象界を根拠づけるものとして、理性によって捉えられたイデアの世界を立てた上、感覚的事物と対比された範型たるイデアこそが実体であると考えられた。イデアは、それ自身によって存在しているもの、そのもの自身であり、あるべきとおりにあるものである。これに対して、現象界にあるものは、いわばイデアの影であり、自己同一性の根拠であるイデアに依存して存在しているものにすぎないことになる。

これに対してアリストテレスでは、なにものかで潜在的にありうる質料は、形相による制約を受けてのみ、具体的個物として現実にそのものとなると考えられており、この具体的個物を、普遍者である第二実体と対比された場合の第一実体にあたるものとしている。この第二実体と第一実体との区別は、後の中世哲学に継承されて本質存在と現実存在との区別として現れることになる。
中世哲学

中世哲学においては、唯名論(nominalism)と実念論(realism)とが対立した(普遍論争)。類的概念の実在性を肯定する実念論では、アダムと他の人間とは同一であると考えられるため、アダムの犯した罪を全ての人間が負うという原罪の問題は解決される。このような立場では、本質的に同一であるものが、現実的にも同一であると主張されていることになる。これに対して唯名論では、類的概念の実在性は否定され、たとえばある人間と他の人間との差異性が強調される。
近代哲学

スピノザは、それ自身のうちにあり、それ自身によって考えられる自己同一的な実体は神のみであるとした。また神の本質の永遠の必然性に由来するものとして、現実的な個体が自己自身を固執する力としてのコナトゥスを認めた。

ライプニッツは、識別できない2つの個体はないとする不可識別者同一の原理を立てた。この原理は、Xのもつ全ての性質をYがもち同時にYがもつ全ての性質をXがもつとき、X=Yが成り立つことを示すものと解されている。

ドイツ観念論においては、カントは「純粋理性批判」に於いて、ヒュームの「人間本質論」に於ける人格の同一性の原理の否定を受けて、デカルトの「私は思惟する」という自覚の同一性は、確かに自我の表象に伴うものであるが、「物自体」として認知不可能な「超越論的自我(transzendentales Ich)」であり実在的同一性ではない(存在命題は導かれない)とした(人格性の誤謬推理)。また「存在は述語」でないとして、本質存在から現実存在を導出するものとしての本体論的証明を退けた。そして彼は実在的同一性に基く合理的心理学を退け、経験的自我についてのみ他の現象する対象と同様の認識の可能性を認める「経験的心理学」を主張した。そしてこの経験的自我の背後にあってそれを可能たらしめる物自体に、主体に内在化されて定言命法に基く道徳的行為の原動力となる人格の根拠としての霊魂を認めたのである。しかし前者は精神医学行動主義心理学に影響を与え、後者はロナルド・D・レインの「反精神医学(anti-psychiatry)」を経て英国の2003年の「性別移行者に関する政府政策」やジョグジャカルタ原則前文の、性同一性を深く感じられた内的経験(意識)に求める定義に影響を与えた[要出典]。

ヘーゲルでは、「実体は主体である」と宣言され、自己矛盾がないという意味での同一性(ヘーゲルにあっては悟性的と形容される)とは区別されるところの、弁証法的発展における矛盾の止揚が説かれている。


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