吉鴻昌
プロフィール
出生:1895年12月4日
(清光緒21年10月18日)[1]
死去:1934年(民国23年)11月24日
中華民国北平市
出身地: 清河南省陳州府扶溝県
職業:軍人
各種表記
繁体字:吉鴻昌
簡体字:吉?昌
?音:Ji Hongch?ng
ラテン字:Chi Hung-ch'ang
和名表記:きつ こうしょう
発音転記:ジー ホンチャン
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吉 鴻昌(きつ こうしょう)は中華民国の軍人。国民軍、国民革命軍の軍人。後に中国共産党に加入し、察哈爾民衆抗日同盟軍の最高幹部の1人となった。原名は恒立。別号は世五。 茶館経営者の子として生まれる。1910年(宣統2年)春、扶溝城の首飾店の学徒となったが、劣悪な待遇に耐えかねて店を辞める。吉鴻昌は郾城の兵站に赴き、馮玉祥率いる左路備補軍第2団で兵士となった。以後、吉は着実に昇進を重ねていく。1924年(民国13年)10月、馮玉祥が北京政変(首都革命)を発動し、国民軍が結成される。その翌年春に吉は綏遠都統署副官処長に任ぜられ、5月には同署警務処長兼騎兵団長に移った。[2][3][4] 南口大戦最中の1926年(民国15年) 6月、駐甘(甘粛)司令劉郁芬率いる軍が蘭州で危機に陥る。命を受けた吉鴻昌は、綏遠都統署の軍を再編して第12師第36旅を結成し、その旅長となる。そして蘭州へ急行し、国民軍に敵対する甘粛の地方軍を撃破して劉を危地から救った。[5][3][4] 同年9月17日、馮玉祥が五原誓師を行い、国民軍を国民聯軍に改組し、全軍で中国国民党に加入した。翌月、吉鴻昌は孫良誠に随従して陝西督軍劉鎮華に包囲された友軍(楊虎城らの軍)を救援に向かい、劉率いる鎮嵩軍を撃破した。1927年(民国16年)4月、国民聯軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、吉は第2軍第19師師長に任命され、潼関県を守備している。5月1日、河南省で奉天派の韓麟春・張学良率いる安国軍
事績
国民軍での台頭
国民革命軍での活躍
しかし1928年(民国17年)、済南事件で?介石が日本軍に強い態度をとらなかったことに吉鴻昌は悲憤慷慨し、一時帰郷して暫時休養している。まもなく隊に戻ったが、第2集団軍の軍縮・再編に際して吉は上司の孫良誠と対立し、それが原因で第19師は解散されてしまい、吉自身は陸軍大学特訓班へ送られてしまった。