吉野
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この項目では、奈良県の地域について説明しています。その他の用法については「吉野 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

吉野地方のデータ
日本
地方近畿地方
面積2,346.83km2
総人口92,070人
(2006年3月31日)

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。大峰の山々は熊野まで連なり、大峰への道は修験者によって熊野から開かれた。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。なお、吉野は吉野山あるいは吉野宮宮滝遺跡)を指す場合もある。
地理春の吉野山

紀伊半島の中部に位置し、奈良盆地の南に位置する。高地盆地山岳地帯が並存する。面積は神奈川県佐賀県に匹敵する。口吉野は吉野川流域、奥吉野は十津川北山川流域である。吉野川は紀ノ川となって紀伊水道へと流れ下り、十津川と北山川は熊野川となって熊野灘へ注いでいる。

日本書紀』の神武紀や応神紀では大和人と異なる生活様式をもつ国栖人の居住地として描かれているが、蛮夷としてではなくむしろ畏敬の念をもって表現されている[1]。柿本人麻呂は万葉集(巻1-36)で吉野を「国」と表現するなど、大和国の一部ながら国中宇陀とは別の盆地状の独立した地域として捉えられていたとされる[1]。このようなことから吉野には吉野宮が造営されたほか、奈良時代には国と郡の中間の行政単位の監が置かれたことがある(芳野監[1]。また、古人大兄皇子や大海人皇子(天武天皇)が落ち延びた地となり、また後醍醐天皇南朝を開いた地となったのも吉野の地形的特徴が背景にあると考えられている[1]桜満開の吉野山と金峯山寺

熊野地方(三重県南部から和歌山県南東部まで)と並ぶ多雨地帯であり、台風銀座でもある。吉野杉秋田杉木曽檜と並んで日本三大美林一つとされ、日本有数の林業地帯となっている。

サクラの名所としても知られるが、多くは吉野の名を冠したソメイヨシノではなく、ヤマザクラの類である。

2004年には、吉野・大嶺を含む紀伊山地の霊場と参詣道が、ユネスコ世界遺産に登録された。
歴史
先史

吉野川流域からは、縄文時代から弥生時代にかけての土器や遺跡が発掘されており、この時代から人々が居住していた。現在のところ一番上流で発見されている遺跡は川上村の宮の平遺跡である。宮の平遺跡 - 川上村丹生川上神社上社が、大滝ダム建設に伴い水没するため、境内の発掘調査が行われた。本殿跡では11世紀末に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土し、周辺からは縄文時代中期から後半にかけての祭祀遺跡と見られる、環状配石遺構が出土している。

また吉野川流域にも多数の古墳が作られているが、完全な形で残っているものは少ない。現在、県の史跡として保存されているものとしては、以下の古墳がある。

五條市:南阿田大塚山古墳

下市町:岡峰古墳

古代

吉野は芳野と表記されることもあり吉野川に続く河岸段丘の美称に由来するとされている[1]

記紀ではまず『日本書紀』の神武前紀に「天皇欲省一吉野之地」(天皇、吉野の地を省たまはむと欲して)との件があり、その記述から五條市阿太から吉野町国栖にかけての吉野川流域のことであるとされている[1]


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