吉野水分神社
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吉野水分神社

本殿(重要文化財)
所在地奈良県吉野郡吉野町吉野山1612
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度21分14.1秒 東経135度52分23.3秒 / 北緯34.353917度 東経135.873139度 / 34.353917; 135.873139 (吉野水分神社)座標: 北緯34度21分14.1秒 東経135度52分23.3秒 / 北緯34.353917度 東経135.873139度 / 34.353917; 135.873139 (吉野水分神社)
主祭神天之水分大神
社格式内社(大)
村社
本殿の様式春日造・流造
別名子守宮
例祭10月第3土曜日
主な神事御田植神事(4月3日)
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}吉野水分神社
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吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町子守地区(吉野山上千本)にある神社。別名を子守宮と称す[1]2004年平成16年)7月に、ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する資産の一部として登録された。
歴史

創建年代については不詳である。当社に関する最も古い記録は『続日本紀』の文武天皇2年(698年)4月29日の条で、「馬を芳野水分峰神に奉る。雨を祈ればなり」とあり、芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述である[2]。また、万葉集には「神さぶる岩根こごしきみ吉野の水分山を見ればかなしも」とあり、都から遠く離れた水分山が歌に詠まれていることから、吉野の水分が信仰されていたことが窺える[3]。元来は吉野山の最奥部、吉野町黒滝村川上村の境に位置する青根ヶ峰の山頂に位置していたとされ、その山頂から西北約1kmの山腹には元・水分神社跡と伝わる場所が残っている[2][4]。青根ヶ峰は吉野川の支流であり、東へ流れる音無川、北へ流れる喜佐谷川、西へ流れる秋野川などの源流となる山で「水分 = 水配り」の神の鎮座地にふさわしい場所である。大同元年(806年)頃に現在地へ遷座した。延喜式神名帳では「大和国吉野郡 吉野水分神社」として記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。社家は前防家である。

葛城水分神社都祁水分神社宇太水分神社と共に大和国四所水分社の一つとして水の神を祀り古くから信仰されてきた[5]。約700年前の室町時代より当社境内で御田植神事(後述)が行われているが、神社がある吉野山では水田が無いにもかかわらず神事が行われるのは、里に水を行き渡らせる「水分」の神が祀られているからである[6]。さらに、「みくまり」が「みこもり」と訛り、「御子守り」として、平安時代中期頃から「子守明神」と呼ばれるようになり、藤原道長の日記『御堂関白記』や清少納言の『枕草子』にも「子守明神」として登場している[7]。また、道長は寛弘4年(1007年)に、金峰山山上の子守明神に金銀五色等を奉ったと記録に残り[2]、当時の権力者からも崇敬を受け子授けの神が信仰を集めていたことが分かる。

12世紀ごろには神仏習合により、水分神は地蔵菩薩垂迹とされ(子守権現)、金峰山蔵王権現金峯山寺)に属する神社として修験道の行場の一つとなっていた。

豊臣秀吉文禄3年(1594年)に吉野の花見で吉水院(現・吉水神社)を本陣とし5日間滞在したが[8]、そのおりに当神社を訪れ子授けを祈願し、秀頼を授かったと伝わる。現在の社殿は秀吉の意志を継いだ秀頼によって慶長10年(1605年)に再建され桃山建築の華麗な様式を伝えている[9][10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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