吉野弘
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吉野 弘
(よしの ひろし)
誕生1926年1月16日
日本山形県酒田市
死没 (2014-01-15) 2014年1月15日(87歳没)
日本静岡県富士市
墓地妙智山慈眼禅寺
職業詩人
言語日本語
国籍 日本
最終学歴山形県立酒田商業学校
代表作「祝婚歌」
「夕焼け」
「I was born」
「虹の足」
主な受賞歴読売文学賞詩歌俳句賞(1972年)
詩歌文学館賞(1990年)
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吉野 弘(よしの ひろし、1926年大正15年〉1月16日 - 2014年平成26年〉1月15日)は、日本詩人
略歴

山形県酒田市生まれ。1938年昭和13年)酒田市琢成第二尋常小学校を総代として卒業し[1]1942年(昭和17年)12月、山形県酒田市立酒田商業学校を戦時繰り上げ卒業した。若いころ高村光太郎の「道程」を読んで感銘を受ける。商業学校卒業後、1943年(昭和18年)1月に帝国石油に就職した。1944年(昭和19年)に徴兵検査に合格するが、入隊5日前に終戦を迎えた[注 1]。戦後は労働組合運動に専念していたが、1949年(昭和24年)に過労で倒れ、肺結核のため3年間療養した。入院中に詩人の富岡啓二と親しくなっている[1]。療養中に詩作を始め、1952年(昭和27年)詩学社詩誌「詩学」に「爪」「I was born」を投稿し新人に推薦される[1]。次いで翌1953年(昭和28年)、川崎洋茨木のり子が創刊した詩誌「櫂」に第三号から参加した[2]。同人には谷川俊太郎大岡信らがいる。1957年(昭和32年)に私家版詩集『消息』を刊行して注目をあつめ、1959年(昭和34年)には詩集『幻・方法』を上梓した[3]1962年(昭和37年)に退職してコピーライターとなった[4]

1972年(昭和47年)、『感傷旅行』で第23回読売文学賞の詩歌俳句賞を受賞した。1979年(昭和54年)から1986年(昭和61年)まで西武池袋コミュニティカレッジで詩の公開講座を担当し後進の育成に励んでいる。1980年(昭和55年)からは文筆を専業とするようになった[1]1990年平成2年)、『自然渋滞』で第5回詩歌文学館賞を受賞した。1994年(平成6年)、『吉野弘全詩集』を刊行する。代表作には結婚披露宴のスピーチで引用され広く知られる「祝婚歌」をはじめ、国語教科書にも掲載された「夕焼け」「I was born」「虹の足」などがある。また母校をはじめとする校歌社歌作詞活動に取り組み、田三郎の合唱組曲「心の四季」でも知られている[注 2]。随筆や評論も手掛け、詩の魅力や詩作法・技術論から詩的感動の原点とは何かという問題にまで論を進めた評論『現代詩入門』が著名である。新聞雑誌において詩壇の選考者を担っている[4]1996年(平成8年)酒田市特別功労賞、1998年(平成10年)第41回埼玉文化賞(芸術部門)を受賞した[1]

1972年(昭和47年)から埼玉県狭山市北入曽に在住し、1977年(昭和52年)には同所を題材とした詩集『北入曽』を発表。1983年(昭和58年)から1996年(平成8年)まで、狭山市民の文芸雑誌『文芸狭山』(狭山市立中央図書館刊行)の編集委員を務め、自作の詩や随筆を投稿している。2007年(平成19年)に静岡県富士市に転居した。米寿を目前に控えた2014年(平成26年)1月15日21時48分、肺炎のため富士市の自宅で死去した[5][6]。87歳没。墓所は狭山市入間川の妙智山慈眼禅寺。
エピソード

吉野を敬愛するロック・ミュージシャンの浜田省吾が『CLUB SNOWBOUND』(1985年)というアルバムに、「雪の日に」の全文を掲載すべく、浜田自身が吉野弘に承諾を得る為に手紙を書いたところ、吉野直筆の「わざわざご丁寧にありがとう」という旨の御礼の返信をもらい感激したことを、浜田がコンサートで明かしている。ちなみに、浜田の代表曲「悲しみは雪のように」は「雪の日に」にインスパイアされて出来た曲だとも言っている。

「祝婚歌」は吉野が姪の結婚式に出席できないため、姪夫婦に書き送った詩である[7]。後に彼の詩集に収録されて公表されることとなった。吉野は、「祝婚歌はぼくの民謡みたいなものだから、この詩に限ってコピーや使用料等、何のご心配なく」と述べたという[8][9]

山田太一も吉野の作品を敬愛しており、山田の作品である「ふぞろいの林檎たち」や「キルトの家」の劇中において吉野の詩を引用している。また、山田は老年になってから影響を受けた10冊として『吉野弘詩集』(続・続続を含む)を第9位に挙げ[10]、漢字遊びの詩作も残した吉野に敬意を払い「貴にして重い」というエッセイを吉野の詩集に寄稿している[1]是枝裕和は映画『空気人形』に「生命は」を引用した。

埼玉県狭山市北入曽に在住していた折には、製茶販売業「井戸端園」の茶畑の隣の宅地に居を構えていた。の栽培の様子に興味を持ち、随筆「茶の花おぼえがき」(詩集『北入曽』所収)を著した[注 3]

吉野は1963年(昭和38年)11月に発生した三井三池三川炭鉱炭じん爆発事故により一酸化炭素中毒の後遺症患者となった元採炭夫の生活を題材とする「豊かに」という詩を残している[1]
没後

没後も、ゆかりの地において家族や親交のあった人物などが参加する各種行事が開催されている。

2016年(平成28年)11月には狭山市市民交流センターにて遺品や資料、直筆原稿、写真などを展観する「吉野弘遺作展」と講演会などのイベントが開催[11][12][13][14]され、吉野と親交があった仲川幸成・前狭山市長が吉野弘遺作展実行委員会委員長を務めた。1週間の会期中に2000人以上の観覧者があったという。短い開催期間ながら好評を博したため、2018年(平成30年)2月にも再び「詩人吉野弘展と講演会」が開催された[15][16]


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