吉野川_(代表的なトピック)
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この項目では、四国の吉野川について説明しています。

近畿の吉野川については「紀の川」をご覧ください。

かつて「よしの川」と名乗っていた列車については「剣山 (列車)」をご覧ください。

その他の用法については「吉野川 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

吉野川
瀬詰大橋(阿波市・吉野川市)から西望
水系一級水系 吉野川
種別一級河川
延長194 km
平均流量-- m³/s
流域面積3750 km²
水源瓶ヶ森愛媛県
水源の標高1897 m
河口・合流先紀伊水道(徳島県)
流域 日本
高知県徳島県


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吉野川中流域。阿波市吉野川市周辺
2007年9月19日撮影吉野川河口(手前は徳島市街地)
2013年3月30日撮影

吉野川(よしのがわ)は、高知県徳島県を流れる一級水系。吉野川水系の本流で流路延長194 km[1]、流域面積3,750 km2[2]徳島市紀伊水道に注ぐ。川幅最長部は2,380 m[3]源流の碑は瓶ケ森の南側を走る瓶ケ森林道脇にある源流の碑から見る

総延長は江の川に次いで全国で13番目に長く、川幅は荒川に次いで全国で2番目に大きい。日本三大暴れ川の1つとして数えられ、利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と並び四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ[4]
地理

愛媛県西条市と高知県の吾川郡いの町に頂を有する瓶ヶ森(標高1896.2 m)より湧き出で、いの町の白猪谷を最源流[5] とし、四国山地の南側を東流、その後高知県長岡郡大豊町で向きを北に変え、四国山地を横断する。徳島県三好市山城町で愛媛県の新居浜市の冠山を源とする最長の支流、銅山川が合流し、三好市池田町の池田ダム香川用水により香川県に分流、三好市池田町で再び東流し、徳島市紀伊水道に注いでいる。高知、愛媛、徳島が関係するため、かつて、この付近では三土地川(みどちがわ)とも呼ばれていた。讃岐山脈と四国山地に挟まれた下流域では徳島平野を形成している。吉野川の流域面積は約3750 km2であり、これは四国の面積の約2割に当たる。唯一水流が四国4県に及ぶ水系である。ただし各県内で一番長い川は高知県では四万十川(四国最長)、徳島県では那賀川である。
本川沿岸の自治体
高知県
(上流域)
吾川郡いの町土佐郡大川村、土佐郡土佐町長岡郡本山町(中流域)長岡郡大豊町
徳島県
(中流域)三好市三好郡東みよし町(下流域)美馬郡つるぎ町**、美馬市吉野川市**、阿波市*、板野郡上板町名西郡石井町**、板野郡藍住町*、徳島市
(*は北岸 / 左岸にのみ位置する自治体、**は南岸 / 右岸にのみ位置する自治体)
本川は流れていないが、支流が流れている自治体
高知県
南国市香美市
徳島県
名西郡神山町名東郡佐那河内村鳴門市板野郡板野町、板野郡北島町、板野郡松茂町
愛媛県
新居浜市四国中央市
香川県
木田郡三木町さぬき市東かがわ市
吉野川開発史

「坂東太郎」(利根川)・「筑紫次郎」(筑後川)と並び「四国三郎」と渾名される吉野川の名は「ヨシが河原に多く繁る川」から来たと言われている[6]。四国四県を網羅するその水系は流域の生命線として多大なる恩恵を与えると同時に、数多くの水害の歴史を持つ。有史時代では886年仁和2年)の洪水が初出である。
徳島藩の治水事業

吉野川の河川開発が本格的に開始されたのは江戸時代に入ってからのことである。1585年天正13年)、長宗我部元親四国征伐で下した豊臣秀吉は、功のあった蜂須賀正勝阿波国一国17万石に封じた。これより蜂須賀氏による阿波支配は始まる。後に蜂須賀家政蜂須賀至鎮父子は徳川家康に与し大坂の陣の功績により淡路国も与えられ阿淡25万石の太守となった。以後徳島城を本拠として代々の藩主は領国の経営に当たるが、最大の課題は吉野川の治水・利水であった。

特に阿波は、国内での豪雨の他に上流の土佐藩領内で豪雨が降ると、阿波で雨が降らなくても水害に見舞われる状況であった。このため阿波での豪雨に伴う水害を「御国水」、土佐藩内での豪雨に伴う水害を「阿呆水(土佐水)」と呼んだ。初期の対策としては築堤の他水防竹林の植生があり、「筍奉行」を設置して竹林の整備を重点的に行った。一方、住民の水防対策としては「石囲い」や石垣による住居嵩上げで防衛策を取った。これは木曽川の水屋に似たものであるが、その石垣は均整の取れた見事なものである。徳島県名西郡石井町に現存する「田中家住宅」は石垣で囲まれた江戸時代の屋敷構えを残し、国の重要文化財に指定されている。

下る19世紀中期には貞光代官・原喜右衛門により「藤森堤」が完成している。この築堤は難工事となり工費が増大し、喜右衛門の私財も投じられたが金策に尽き、近隣8ヵ村の住民らは無償での苦役を強いられた。農民らの窮状を見かねた武田助左衛門が藩主蜂須賀光隆にご法度を破って直訴を敢行し獄死するが、喜右衛門も職を免じられ、見積もり違いと不調法のかどで切腹している。家来2人も追腹を切り、治水に殉じた3人は1893年に創設されたつるぎ町の三王神社に祀られている。このことから、藤森堤は三王堤とも呼ばれている[7][8][9]
新田開発と干拓

利水に関しては、新田開発に絡む事業が多い。元来阿波は藍染めの盛んな地域で、稲作よりも普及していた。だが、人口増加や天候不順に伴う飢饉の頻発、藩財政の逼迫等複合的要因から新田開発による年貢増徴を藩は図ろうとした。だが、実情は藩主導というよりは筑後川と同様に庄屋等の民間主導によるものである。1692年元禄5年)名東郡島田村庄屋・楠藤吉左衛門は島田村・蔵本村・庄村3か村の新田開発を図るため、旧佐吉川筋に幅10間 (18 m)・延長200間 (360 m) の用水路開削に着手した。だが藩からは規模の半分しか許可されなかったため、計画を縮小しての工事となった。1699年(元禄12年)完成した袋井用水は、その後も子の楠藤善平、孫の楠藤繁左衛門によって拡充され3か村数百町歩を潤した。なお藩から御褒美米30俵が下賜されたが吉左衛門は丁重に辞退している。

1752年宝暦2年)第十堰が完成している。当初は徳島城防衛のために第4代藩主・蜂須賀綱通が別宮川(現在の吉野川)を開削したが、その後の洪水で別宮川が本流となってしまい、吉野川本流(現在の旧吉野川)に水が流れなくなったため、水量調整と灌漑を目的として第十堰は完成した。一方、土佐藩領内の長岡郡では、家老野中兼山により地蔵寺川筋に新井堰を建設、そこから新井溝用水を開削・引水し長岡郡内の灌漑を図った。

その旧吉野川・今切川筋であるが、河口部において新田開発を目的とした干拓事業が行われていた。嚆矢となったのは17世紀中頃に大坂の豪商・三島泉斎によって着手された笹木開拓であるが、洪水や波浪によって事業は頓挫し泉斎は破産。その後数代を経て難工事は完成した。続く1783年天明3年)には伊澤亀三郎による開拓が行われた。これは大坂の豪商・鴻池家の援助により行われ、子の伊澤速蔵・孫の伊澤文三郎の3代に亘り笹木開拓地の北端・西端に石積み堤防を築き波浪・洪水を防止、開拓を成功させた。これを住吉新田と呼び現在でも伊澤家3代の遺徳が偲ばれている。さらに1804年文化元年)には坂東茂兵衛によって豊岡開拓が行われ、防潮・防風を目的に20万本の松を植林し築堤。今切川下流の新田開発を図った。この開拓は孫で今切川用水裁判人の役職に就いていた豊岡茘敦(れんとん)によって完成を見た。

こうして新田開発とそれに伴う利水事業は進められたが、総合的な灌漑は遅々として進まなかった。こうした中1850年嘉永3年)に後藤庄助が徳島藩勧農方に「吉野川筋用水存寄申上書」を提出、さらに1865年慶応元年)には庄野太郎が「芳川(吉野川)水利論」を著し、吉野川南岸用水の必要性を論じた。この計画は後の麻名用水事業に結実して行く。一方、豊岡茘敦も1874年明治7年)に「疎鑿迂言」を著し吉野川北岸部の用水整備と藍染依存からの転換を論じた。だが彼の意見が実現をみるには1990年(平成2年)の吉野川北岸用水事業の完成を待たねばならなかった。
明治期の河川開発?麻名用水と第十樋門?

明治時代に入り、近代河川技術が吉野川にも導入された。1884年(明治17年)に全国の河川整備に携わったヨハニス・デ・レーケは吉野川を視察。翌1885年(明治18年)より旧内務省徳島県の共同事業として「吉野川改修工事事業」が着工した。だが1888年(明治21年)7月の水害で流域は大きな被害を受け、原因を河川整備の不備・失策と見た住民は蜂起して工事事務所を襲撃し改修事業を中止に追い込んだ。この暴動を「覚円騒動」と呼び、以降河川改修は中断した。

一方利水に関しては1906年(明治39年)より麻名用水の建設が開始された。元来は麻植郡名西郡の農地開墾と藍染から稲作への転換を目的に、麻植郡郡長・井内恭太郎が中心となって1899年(明治32年)に「麻植・名西郡水利組合」を結成したことが発端である。だが藍染を生業とする業者や負担金分担に反対する者による激烈な反対運動で一時頓挫した。ところが1903年(明治36年)ドイツ製化学染料が輸入されたことにより藍染業者は大打撃を受け、翌明治37年の大旱魃も重なって用水開鑿の重要性がにわかにクローズアップされた。名西郡郡長に転出していた井内は用水建設の総指揮を執り、1912年(明治45年)に完成させた。さらに1914年大正3年)には用水機能補完のための飯尾川引水事業も完成。吉野川南岸の灌漑は飛躍的に整備された。

大正時代に入ると「覚円騒動」で中断していた治水事業も復活。吉野川各地に水刎水制であるケレップ水制が設置された。また、旧吉野川との分流点・第十堰付近には旧吉野川の洪水調節・河川維持用水を目的に1923年(大正12年)に第十樋門が建設された。当時日本一の樋門として吉野川の名所となり多くの見物客が訪れた。1926年(大正15年)5月8日、吉野川河川改修工事竣工式が徳島市外吉野河原で開催[10]。その後1927年昭和2年)に吉野川築堤は完成し第1期吉野川改修事業は完了した。この堤防はその後流域を襲った1934年(昭和9年)の室戸台風1945年(昭和20年)の枕崎台風、さらには吉野川最大の出水となった1954年(昭和29年)の台風12号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風1961年(昭和36年)の第2室戸台風においても破堤せず洪水防御に役立った。
銅山川分水と利害の対立

一方、愛媛県宇摩地方(現在の四国中央市一帯)では慢性的な水不足を解消するため、銅山川からの分水計画・銅山川分水を安政年間より計画していた。1924年(大正13年)に宇摩郡疏水組合が結成され、翌年には「銅山川疏水事業期成同盟会」が結成されて、法皇山脈を貫く導水事業の早期完成を行政に促した。これを受け愛媛県は1928年(昭和3年)に柳瀬ダムを銅山川に計画して利水・発電を目論んだ。

1931年(昭和6年)に愛媛県と徳島県は「分水に関する仮協定覚書(第一次分水協定)」を締結したが、土居徳島県知事は事前に県会の承認を得る事を定めていた内務省令を無視し、勝手に覚書を交わしていた。これに徳島県会が猛反発した。また、内務省の担当者がダム計画の説明に県会を訪れたが、分水反対派の三木熊二県議に利水計画に対してダム容量が少なすぎることを指摘されたばかりか、住民説明会では、住民側から吉野川の想定流量が現実の値をかけ離れている事を指摘され、説明を求められると、鉄道乗車予定時刻を理由に退席しようとした。


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