吉野城
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この項目では、奈良県に存在した城について説明しています。愛知県にあった城については「吉野城 (尾張国)」をご覧ください。
吉野山を北側から望む。金峯山寺蔵王堂を中心とした山々が吉野城の範囲にあたる。中央の谷に広がるのは丹治の町で、左手の山に丹治城が築かれた

吉野城(よしのじょう)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にあった日本の城山城)。鎌倉時代末期に大塔宮護良親王が、吉野山で挙兵し拠点とした。軍記物語太平記』では金峯山城とも。本項では『太平記』に登場する吉野城攻防戦および正平3年(1348年)の高師直による吉野行宮への襲撃も述べる。
歴史

奈良時代役行者が開いたとされる大峰山での修験道は、一時途絶えていたが、平安時代聖宝によって中興されて以降、大いに発展した。その大峰山への入口にあたる吉野山の尾根には数多くの寺院宝塔が建てられた。尾根沿いの地形は天然の要害、寺院宝塔は防禦陣地としても使え、吉野山は元来から中世山城としての性格を備えていたが、護良親王が挙兵し拠点とすると前衛に城塁(支城)を構築し要所に木戸や空堀が設けられたと伝えられる。
吉野城攻防戦
護良親王が吉野山に現れるまで

大塔宮護良親王が吉野山に現れるまでは太平記巻第五「大塔宮熊野落事」で語られている。以下、抜粋して述べると…鎌倉時代末期、1331年元弘元年)に後醍醐天皇笠置山で挙兵し元弘の乱が起こると皇子、護良親王も参戦した(この時は、まだ仏門に入っており「尊雲法親王」といった。還俗して「護良」と名乗るのは『太平記』では十津川郷に滞在中)。護良親王は南都の般若寺で笠置山の動向を伺っていたが、笠置山が陥落し後醍醐天皇も囚われの身となる。護良親王にも捜索の手が及び、親王は僅かな手勢を連れて熊野方面へと脱した。この時に赤松則祐村上義光、木寺相模ら9名ほどが供奉した。一度は熊野へ向かうが、護良親王の夢に童子が現れ、熊野は危ないので十津川に行くようにというお告げを受けて、十津川に入った[1]。十津川郷の土豪、戸野兵衛、竹原八郎に匿われ、半年ほど滞在するが、幕府方に味方した熊野別当定遍の策略もあり、護良親王一行は十津川を脱して高野山方面へ向かった。途中、幕府方についた荘官の敵中を突破し、紀伊国の土豪、野長瀬六郎と七郎にも助けられ、今の五條市にあった槇野城に入った。しかし、槇野城は手狭であったので、ほどなくして吉野山に移った、とある。

護良親王が吉野山にいつ頃移ったのかは不明瞭だが、親王が吉野山から発した令旨で、元弘2年6月27日に和泉松尾寺へ宛てたものがあり、これより前と考えられる。また『太平記』では言及されていないが、吉水院宗信法印が吉野山の大衆を説得して護良親王を迎えたと伝えられる。
吉野城攻防戦

吉野城の攻防戦は太平記巻第七「吉野城軍事」で語られている[2]1333年(元弘3年、正慶2年)2月16日[3]、幕府方、二階堂道蘊は6万余騎を率いて吉野金峯山城(吉野城)へ押し寄せる。菜摘川(なつみがわ)付近の流れの淀んだところから城の方角を見上げれば尾根には白、赤、錦の旗が多数立ち並び、山麓には数千の護良親王軍の兜や鎧が輝き、錦の刺繍の敷物を敷いたかのごとく。険しい地形はたとえ数十万の軍勢で攻めたとしても、そう容易く城を落とせそうにもない。2月18日卯刻(午前6時)、両軍互いに矢合わせを開始、幕府軍は兵力を押して攻め続けたが、一帯の地理を知り尽くす護良親王軍は地の利を生かして幕府軍を翻弄する。それでも命知らずの坂東武士揃いの幕府軍は親子、主従、仲間の死骸を乗り越えて攻め続け、じわじわと城へと肉薄する。七昼夜、息をもつがせぬ死闘が連続し護良親王側の戦死者300余り、幕府側の戦死者800余り、負傷者はその数、数千万にのぼり一帯の草芥は鮮血に染まり死骸が路を埋めつくす。しかし、護良親王軍は戦いに屈した風も見えず、むしろ幕府軍の多くに疲労の色がにじみ出始めていた。幕府方に山の道案内として加わっていた吉野執行・岩菊丸(いわぎくまる)は部下を呼び寄せる。すでに東條方面の大将金澤右馬助殿は赤坂城を攻め落とし、金剛山へ向かったと聞くが、我らは道案内として加わったのに一向に攻め落とすことが出来ず情けない。考えてもみれば、あの城(吉野城)は大手側(正面)からいくら攻めても無理な話。そこで城の裏手の金峯山青根ヶ峰側)、愛染明王宝塔の方から攻め込んでみてはどうか。あそこは地形が険しく敵も防備を手薄にしているに違いない。そこで地理に詳しい者を150名ほど編成し、夜陰に紛れ潜入させて、夜明けとともにときの声を上げて城内の連中が混乱している間に、搦め手(裏手)、大手の三方から一気に攻め込めば、城は落ち親王を生け捕りに出来るのではないか。さっそく地理に詳しい150人余りを選抜し夜陰に紛れて金峯山方面へと忍び込ませた。岩菊丸の読んだ通り金峯山方面には護良親王軍は一人もいなかった。潜入した岩菊丸の手勢は木の下や岩の陰に隠れ夜明けを待った。夜が明け、一斉攻撃の時刻となると幕府軍5万余は、三方より押し寄せ城めがけて攻め上がる。吉野の大衆500余人が攻め口まで下って防ぎ止めていたが、背後に潜入した岩菊丸の手勢も行動を起こし愛染明王宝塔から城の方々に火を放って、ときの声をあげながら攻め下った。前後から攻められては防ぎきれるものもなく吉野の衆徒らの陣は崩壊し、大手方の堀はたちまち死者で埋まり平地と化した。さらに、搦め手からも幕府軍が攻め込んできた。彼らは勝手明神の社の前から護良親王が立て籠もる蔵王堂へと迫る。護良親王は逃げ道なしと覚悟を決めて、赤地の錦の鎧立垂の上に緋色おどしの真新しい鎧を装着した。頭には龍頭の飾り付き兜を被って緒を締め、足には白檀色に磨きぬいた脛当、脇に3尺5寸の短刀を挟み込む。親王を守る強者20余人が前後左右を守り、敵の群がりが来るのを見ては、その中に突入し東西を払い南北を追い回し黒煙を立てて切り回る。幕府軍は、このわずかの小勢に切り立てられて木の葉が風に散るように四方の谷へと退いていった。一旦、幕府軍を撃退した後、護良親王らは蔵王堂内の広庭に大幕を引き巡らした中に居並び最期の酒宴を始めた。親王の鎧には矢が7本も突き立っており頬と二の腕の二カ所に突き傷を負い、滝のように血が流れていた。しかし、親王は矢も抜かず、流れる血糊も拭わないまま敷皮の上に立ち、大きな杯で酒3杯を飲み干す。やがて木寺相模が4尺3寸の太刀の先に敵の首をさし貫き親王の前で舞いはじめた。戈セン剣戟(かせんけんげき)をふらす事 電光の如く也盤石 巌(いはほ)を飛ばす事 春の雨に相同じ然りとはいえども 天帝の身には近づかで修羅かれが為に破らる囃子を揚げて舞う有様は、鴻門の会の時、楚の項伯項荘が剣を抜いたまま舞いながら、漢の高祖を暗殺せんと迫ったその時、高祖の臣下、樊?が幕を上げて、その剣舞に乱入し楚王の項羽を睨み付けた気迫のごとく。大手方も危うくなってきたとみえ、両軍のときの声が混じって聞こえるようになってきた。幕府方と最前線で死闘を展開していた村上義光は、そこを離れて蔵王堂へと走った。鎧には16本もの矢が突き立っていたが、枯れ野に残る冬草が風に伏すがごとくその矢を折り曲げ、護良親王の御前に走る。


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