吉野作造
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吉野作造
人物情報
生誕1878年1月29日
宮城県志田郡大柿村
死没 (1933-03-18) 1933年3月18日(55歳没)
神奈川県三浦郡逗子町
国籍 日本
出身校東京帝国大学法科大学政治学科、同大学院
子供長女:土浦信子(建築家)[1]
学問
時代大正時代
研究機関東大法科大学、黎明会明治文化研究会
特筆すべき概念民本主義
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吉野 作造(よしの さくぞう 1878年明治11年〉1月29日 - 1933年昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本政治学者思想家。「民本主義」という訳語の提唱者。袁世凱の長男、袁克定の家庭教師。「黎明会」の設立発起人。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。初名は「作蔵」で、大正6年(1917年)5月「作造」と改名した[2]。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家の吉野信次
来歴

明治11年(1878年)、宮城県志田郡大柿村96番地(現・大崎市古川十日町)に木綿織物の原料を扱う糸綿商吉野屋を営む父・年蔵、母・こうの長男として生まれた。当時の吉野屋には、祖母、両親、5歳と3歳になる二人の姉、そして父の姉夫婦が同居していた。作蔵(作造)は長男であったが、長子に跡目を継がせぬという宮城県北部の家督相続の風習により、家業を継がなかった[3]。吉野家は明治25年(1892年6月8日に長姉の婿養子・和平が相続している。

明治17年(1884年)3月、6歳で古川尋常小学校(現・古川第一小学校)に入った。初めて読んだ漢文の書物は『皇朝史略』で、二人の姉から読み方を教わった。明治19年(1886年)7月、高等小学校一年生の時、古川講習会に参加したことがあった[4]。明治25年(1892年)6月、宮城県尋常中学校(現、仙台一高、校長は大槻文彦)が開校し、古川から初めて吉野が推薦された。このとき吉野は14歳であった[5]
中学時代

明治28年(1895年)の旧制中学校入学の年が林子平の百回忌にあたり、校長・大槻文彦が子平の伝記を講義した。作造は、その中から面白いと思ったことを書き留め、雑誌『青年文』明治28年(1895年)2月号に『林子平の逸事』という題で投稿した。子平の探究心と行動力、周囲に惑わされない思慮深さなどを紹介している。またこの頃、劣勢の南朝のために奮戦した菊池氏の孤忠を、「寒桜」に譬えた作文を書いた[6]。同年7月、学内誌『如蘭会雑誌』第一号の「松風録」にも林子平についてのことを書き記している[7]。中学校では、回覧雑誌発行に熱中する様になり、二年生の時『常磐文学』を始めた。会員増加や対抗誌が出来るなど、学内でも回覧雑誌が流行した[8]。吉野は、回覧雑誌編集を通じて友人をつくった。その中の一人に小学校からの友人・三浦吉兵衛がいた。
和歌

明治28年(1895年)、日清戦争の戦勝に際しては下記のような秀歌を詠んでいる[9]。.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}荒野原(あれのはら) 太刀(たち)の枕(まくら)に まどろみて 譽(ほまれ)のいさを 夢(ゆめ)を見る覧(らむ) ? 吉野作蔵(『軍人ゆめ』)唐(もろこし)の 荒野(あれの)に生(は)へし 醜草(しこぐさ)も 靡(なび)くや君(きみ)の 御稜威(みいつ)の風(かぜ)に ? 吉野作蔵(『皇コ及邊境』)故郷(ふるさと)の 妻子(さいし)が書(か)きし たま章(づさ)に 月(つき)をかすむる 雁金(かりがね)の跡(あと) ? 吉野作蔵(『夜營』)露霜(つゆしも)に おきふすも君(きみ) 爲(ため)なれや 大和(やまと)男子(をのこ)の 何(なに)いとふべき ? 吉野作蔵(『夜營』)1913年頃の雑誌『新人』の同人(前列左から湯浅治郎海老名みや、松井友子、野口せい子、小山東助、右端不明、後列左から和田信次、相原一郎介、吉野作造、海老名弾正加藤直士鈴木文治
高校時代

明治30年(1897年)9月、第二高等学校法科に無試験合格する。尚絅女学校校長アニー・S・ブゼルの聖書研究会に参加。

明治31年(1898年7月3日内ヶ崎作三郎・島地雷夢らと三人一緒に浸礼を受ける[10]。キリストネーム「ピリポ」。二高で事件となった[11]

明治33年(1900年5月14日、20歳の「たまの」との婚姻届出す。7月、二高を卒業。9月、東京帝国大学法科大学に入学。本郷教会(牧師海老名弾正)で三沢糾らとともに『新人』の編集に参加協力する。
政治学へ天津時代の吉野作造(1908年3月)

東京帝国大学では小野塚喜平次の薫陶をうける。実家は吉野を大学に出す経済的余裕がなかった。妻「たまの」も仙台で小学校勤務を続けながら、十戸で長女・を育てることとなった[12]。信はのちに建築家土浦亀城と結婚する。

明治36年(1903年)、英語雑誌からエスペラントを知り、ロンドンから教科書を取り寄せて勉強。明治37年(1904年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業(銀時計受領)し、同大学院進学。同大工科大学講師就任。

明治39年(1906年)1月、袁世凱の招聘を受け、長男・袁克定(中国語版)の家庭教師として、妻「たまの」と三女・光子を伴って天津に赴任[13]。袁家が北京に移住すると、吉野は天津に残り、1907年(明治40年)9月[14]から1年間北洋法政專門学堂(中国語版)の教鞭を執る。明治42年(1909年)1月に帰国し[15]、2月5日東大法科大学助教授就任。明治43年(1910年)4月より3年間の欧米留学。大正2年(1913年)7月、3年間の留学を終えて帰国後、東京大学で政治史講座を担当することになった。初めての講義は、「現代政治的進化の外観」と題し、主に「社会主義」の過去・現在より各国における回答の情勢を詳述した。
民本主義の主張

大正3年(1914年)1月、『中央公論』編集主幹の瀧田樗陰[16]に頼まれ、同誌に「学術上より見たる日本問題」[17]を寄稿し、国際社会の一員としての日本人のあり方に批判的な目を向けている[18]。4月号には「民衆的示威運動を論ず」を寄稿、日本の民衆運動にも民衆の自覚という肯定的な面を主張した[19]萬世一系、坤輿に比類なき芽出度、皇統を受けさせ給へる我が聡明仁孝なる今上陛下は人皇第百二十二代の帝として近く將に?位の大禮を擧させられんとす。恭しく惟みるに、神武大和橿原に於て帝位に?き給ひてより、茲に二千五百七十三年。此間大古一千年は漠として多く知る可らざるも、神功皇后三韓を征伐せらるゝあり、仁コ帝の民の疾苦を察し、三年の御調を止められ、高き屋の御歌をよみて、仁政の範を垂れ給へるあり。


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