吉野ヶ里遺跡
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吉野ヶ里遺跡吉野ヶ里遺跡 遠景
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所在地日本 佐賀県吉野ヶ里町神埼市
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度19分25秒 東経130度23分26.5秒 / 北緯33.32361度 東経130.390694度 / 33.32361; 130.390694
種類遺跡
面積36ha(埋蔵文化財包蔵地
歴史
時代弥生時代古墳時代奈良時代
追加情報
発掘期間1986年 - 継続中
状態保存、一部盛土の上遺構を復元し公園化
所有者私有地・公有地混在
管理者公園
一般公開一部公開

国指定特別史跡
登録日1991年5月28日
指定面積22ha
文化財指定佐賀県指定史跡:28ha(特別史跡とは別)
国指定重要文化財:「佐賀県吉野ヶ里遺跡墳丘墓出土品」

吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。国の特別史跡に指定されている。

およそ117ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園である。
遺構周辺地図および公園整備区域、遺跡の範囲。(オープンストリートマップによる)

佐賀県東部は標高1,000メートル前後の脊振山地を北端に、脊振山地南麓の丘陵地帯、佐賀平野有明海へと移るにつれて標高が低く、南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの脊振山地南麓の丘陵地帯の1つで、吉野ヶ里町(旧三田川町)と神埼市(旧神埼町)に跨る。

吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。壕の内外には木柵、土塁逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。

内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴建物高床建物は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている。また、食料を保管する高床倉庫貯蔵穴土坑青銅器製造の跡なども発掘された。

多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺石棺土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。一方、遺跡の南部と北部にあわせて2つの墳丘墓(それぞれ「北墳丘墓」「南墳丘墓」と命名されている)があり、こちらは集落の首長などの墓ではないかと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。また、ガラス製の管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっている。

多数の土器石器、青銅器、鉄器木器が出土している。勾玉管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがある。1998年には銅鐸が遺跡の周辺部で発見された[注釈 1]。九州北部で製造されたと推定されており、形状から福田型銅鐸とみられている。

出土した遺構や出土品には、九州北部をはじめとした日本各地のものと共通・類似した特徴を持ったものが見られるほか、中国大陸朝鮮半島南西諸島ともさまざまな面で共通性・類似性が見られる。

また、遺跡内にある3基の前方後方墳は、弥生時代の集落が消滅した跡に造られたと考えられている。

外濠は土塁と柵、逆茂木・乱杭で防衛が図られた

南内郭

北内郭の大型建物



祭壇

北墳丘墓

復元された倉庫

多様な弥生土器

祭祀用土器

大型の甕棺

銅鐸

稲作が行われていたことを示す石包丁

紡錘が行われていたことを示す紡錘車

ガラス小玉碧玉管玉

歴史
旧石器時代

ナイフ型石器、台形石器、尖頭器などが出土。
縄文時代

縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。土器片が発見されている。

ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。

有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、またカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。
弥生時代

紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。

前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。

中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓甕棺が多く見られるようになる。大きな墳丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。

後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測される。

海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、遺構からはのようなものがあったと推定されている。[注釈 2]吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、この港と交流を持ったと考えられている。


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