凡例吉見 正頼
吉見大蔵大輔正頼
(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永正10年[1](1513年)
死没天正16年5月22日(1588年6月15日)[注釈 1]
改名正頼、周鷹(法号)[1]、正頼[1]
別名四郎、式部四郎(通称)[1]
戒名周鷹寺殿月左鷹公大居士
墓所山口県萩市大井の海岸山周鷹寺
吉見 正頼(よしみ まさより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。石見国鹿足郡津和野の三本松城を本拠とした国人・吉見氏の当主。大内氏、毛利氏の家臣。 石見国の国人である石見吉見氏は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。 永正10年(1513年)、吉見頼興の五男として誕生。当初は石見津和野興源寺で僧籍にあったが[1]、天文9年(1540年)、父より家督を継いでいた兄・隆頼(頼隆)が不慮の死を遂げたため還俗して家督を継ぎ、隆頼の正室であった大宮姫(大内義隆の姉)を娶った[2][3]。正頼は清廉な人物で、大内義隆から厚く信任を受けた。 天文20年(1551年)8月、大内義隆の密使として相良武任が正頼の許に訪れる[4]。そして9月1日には義隆が重臣の陶隆房の謀反によって討たれる(大寧寺の変)[5][6][4][7]。
出自
生涯