吉行淳之介
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吉行 淳之介
(よしゆき じゅんのすけ)
『新日本文学全集 第38巻』(集英社、1962年8月)
誕生1924年4月13日
日本 岡山県岡山市
死没 (1994-07-26) 1994年7月26日(70歳没)
日本 東京都中央区聖路加国際病院[1]
墓地岡山県岡山市
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
教育1952年 - 1994年
最終学歴東京大学英文科除籍
ジャンル小説随筆翻訳
文学活動第三の新人
代表作『驟雨』(1954年)
砂の上の植物群』(1963年)
『不意の出来事』(1965年)
『星と月は天の穴』(1966年)
『暗室』(1969年)
『鞄の中身』(1974年)
夕暮まで』(1978年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1954年)
新潮社文学賞(1965年)
芸術選奨(1967年)
谷崎潤一郎賞(1970年)
読売文学賞(1976年)
野間文芸賞(1978年)
日本芸術院賞(1979年)
講談社エッセイ賞(1986年)
親族吉行エイスケ(父)
吉行あぐり(母)
吉行和子(長妹)
吉行理恵(末妹)
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吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ、1924年大正13年)4月13日 - 1994年平成6年)7月26日)は、日本小説家。父は吉行エイスケ、母は美容師吉行あぐり、女優吉行和子と作家吉行理恵は妹。

岡山県生まれ。東京大学英文科中退。『驟雨』で芥川賞受賞。「第三の新人」の一人で、『砂の上の植物群』『暗室』など、性を媒介として人間を探求した作品で高い評価を受けた。また、自身の少年期に材をとった小説でも知られる。エッセイや対談も多い。他方で、文壇的活動も活発で、多くの文学賞の選考委員を務めた。日本芸術院会員。
来歴1956年映画『砂の上の植物群』(1964年)の撮影現場。左から吉行、監督の中平康、出演者の西尾三枝子

岡山県岡山市に父・吉行エイスケモダニズムの詩人)、母・あぐり(美容師)の長男として生まれる。2歳の時に両親が上京、東京麹町に育つ。同じ町内には内田百がいた。[2]府立一中武蔵高等学校尋常科府立高等学校尋常科の受験に失敗し[3][4]麻布中学に進学。

1940年に父・エイスケが急死した。しかし自身はその頃腸チフスにかかり入院していたため、死を知らされたのは退院後であった。翌1941年に旧制静岡高校(現:静岡大学)文丙(文系仏語クラス)に進むが、2年進級時に「心臓脚気」という仮病で1年休学[注釈 1]、この頃より文学に関心を持つようになる。

1944年、徴兵検査を受け甲種合格、20歳で召集されるが、9月1日の入営直後に気管支喘息と診断され即日帰郷。翌年も徴兵検査を受け、再び甲種合格となったが召集前に終戦を迎えている。1945年4月、東京帝国大学に入学。5月25日の空襲で焼け出され自宅を失った。

大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。社長の勧めで学業を放棄し(学費を一度も払わず、学費未納のため除籍処分)、1947年に新太陽社へ入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わった。このときアルバイト編集者に澁澤龍彦がいた。『モダン日本』時代に小島功らと交流、赤川童太鈴木義司富永一朗らを抜擢し、新人漫画家の発掘の天才と言われた[5]

倒産寸前の会社で多忙を極めつつ、『世代』『新思潮』などの同人雑誌に年一作のペースで作品を発表。同人雑誌を通して安岡章太郎近藤啓太郎阿川弘之三浦朱門島尾敏雄らと知り合った。

1952年『原色の街』が芥川賞候補になり、その後も『谷間』、『ある脱出』が候補に上る。『谷間』発表後、空洞が肺に見つかり結核と診断され会社を休職、翌53年の春に退社した。退社後は千葉県佐原市の病院に夏まで療養し、11月に清瀬病院に入院。その間は生計のためにABC放送のラジオ原稿を書いていた。清瀬病院で療養中の1954年に『驟雨』で第31回芥川賞を受賞、収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、同世代の作家である遠藤周作安岡章太郎三浦朱門近藤啓太郎らと共に「第三の新人」と呼ばれた。

1971年、編集者の佐藤嘉尚とともに、雑誌『面白半分』を編集長として創刊。

1979年、日本芸術院賞を受賞し[6]、1981年、日本芸術院会員となる。晩年は数々の病気を克服しながら執筆を続けた。

1994年、肝臓癌のため聖路加国際病院で死去、70歳没[1]。戒名は清光院好文日淳信士[7]。墓所は岡山市北区御津金川(旧:御津郡金川町草生)の吉行家墓地にある。
作品

私小説的な純文学および芸術的傾向の作品として、『砂の上の植物群』『暗室』『夕暮まで』などの長編、『男と女の子』『焔の中』『出口・廃墟の眺め』などの中編、更に奇妙な味の短編『鞄の中身』など。大衆文学の方面では『すれすれ』『にせドンファン』『鼠小僧次郎吉』などがある。また、『軽薄のすすめ』など軽妙な随筆のファンも多い。

長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載し「座談の名手」としても知られ、それらは『軽薄対談』『恐怖対談』などにまとめられている。またヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』の翻訳、井原西鶴好色一代男』の現代語訳なども手がけている。阪神タイガースのファンで、『Number』誌上で山藤章二上岡龍太郎と鼎談を行ったこともある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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