よしゆき かずこ
吉行 和子
1962年
本名吉行 和子
生年月日 (1935-08-09) 1935年8月9日(88歳)
出生地 日本・東京府(現:東京都)
血液型B型
職業俳優
エッセイスト
俳人
ジャンルテレビドラマ
映画
活動期間1954年 - 現在
配偶者なし(離婚歴あり)
著名な家族父:吉行エイスケ(詩人・小説家)
母:吉行あぐり(美容師)
兄:吉行淳之介(小説家)
妹:吉行理恵(詩人・小説家)
主な作品
テレビドラマ
『風と雲と虹と』
『水中花』
『3年B組金八先生シリーズ』
『西部警察 PART-II』
『西部警察 PART-III』
『徳川家康』
『ナースのお仕事』
『あぐり』
『Et Alors?エ・アロール?』
『ごちそうさん』映画
『にあんちゃん』
『愛の亡霊』
『お日柄もよくご愁傷さま』
『佐賀のがばいばあちゃん』
『東京家族』
『家族はつらいよ』シリーズ
受賞
日本アカデミー賞
優秀主演女優賞
1978年『愛の亡霊』
2013年『東京家族』
その他の賞
毎日映画コンクール
女優助演賞
1959年『才女気質』『にあんちゃん』
田中絹代賞
2002年 第8回紀伊國屋演劇賞個人賞
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吉行 和子(よしゆき かずこ、本名 同じ、1935年〈昭和10年〉8月9日 - )は、東京府(現:東京都)出身の俳優、エッセイスト、俳人。
父は作家の吉行エイスケ、母は美容師の吉行あぐり。兄は作家の吉行淳之介、妹は詩人の吉行理恵。私生活では28歳のときに結婚するも、4年ほどで離婚[1]。以降は独身で通している。子供はなし。 2歳で小児喘息を患い、病弱な子ども時代を過ごす。 父は和子が4歳のときに死去、母は美容師として働いていたため、ひどい喘息の発作が起こると、岡山の祖父の元に預けられていた。 1954年、女子学院高等学校を卒業。 卒業前に劇団民藝付属水品研究所を受験して入所。女優になるつもりはなく、絵を描くことや裁縫は得意だったことから「衣装係にでもなれれば」と思って受験したところ、思いがけず女優候補として採用された[2]。 1955年、初舞台を踏む。同年、津島恵子主演の『由起子』でスクリーンデビュー。 1957年、民藝所属となる。『アンネの日記』のアンネ・フランク役に抜擢され、主役デビューも果たすが、その後は地味な「農民の娘」役ばかりであったという。 1959年、日活と契約。同年、『にあんちゃん』『才女気質』での演技で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。 1978年、性愛を大胆に扱った大島渚の監督映画『愛の亡霊』に主演して(40歳を過ぎての出演には周囲の反対があった[4])世間を驚かせ、日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。 2002年には『折り梅』などで毎日映画コンクール田中絹代賞を受賞。 テレビドラマのほか、かつては『おかあさんといっしょ』でのお話のお姉さんとしても活躍していた。 文筆の世界では、1983年にエッセイ集『どこまで演れば気がすむの』を出版し、1984年の第32回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。2000年には母の日に贈った五行歌が『朝日新聞』で大きく紹介された。 舞台俳優としては2008年の『アプサンス?ある不在?』を最後に舞台から引退することを表明したが、好評を博したため、2009年にアンコール公演が決まった(吉行自身はこのことに関して「女優って嘘つきですね」とコメントしている。一応、この作品のアンコール公演をもって引退するというが、その撤回も考えていると『徹子の部屋』でその複雑な胸中を明らかにした)。
来歴
エピソード
母・あぐりは和子について「(幼少期から)ものすごく手先が器用だったんです。お人形さんのお着物を作りましたり、編み物をしましたり。うまく作るんです。」と語っている[5]。
成年しても喘息は治らず、ずっと喘息の薬を飲んでいたが、52歳のとき鍼治療でよくなったと語っている[3]。
実際の性格はお茶目で温厚である。『タモリのジャポニカロゴス』では演じ分けを行い、タモリから絶賛された。
1960年(昭和35年)6月22日、ベルリン国際映画祭に出席のため、日活の堀久作社長らと共に西ベルリンへ出発。同7月14日、日本に帰国。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なドイツ訪問となった。
俳優の岸田今日子、冨士眞奈美と親しく[注釈 1]、しばしば3人で座談会やテレビに出演した。2000年には共著『ここはどこ』『わたしはだれ?』を出版。
長年の趣味でもある俳句は岸田と富士に誘われて始めた。俳号は窓烏(まどがらす)[6]。伊藤園お?いお茶新俳句大賞では審査員も務める[7]。
タレントのピーコとも親交が深く、ピーコが癌で入院した時には、毎日見舞いに行っていた。ピーコが家族以外に癌であることを真っ先に知らせた人物でもある。
家庭的な母親役や祖母役のイメージが強いが、私生活では家事が苦手であると告白している。『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」や『徹子の部屋』にゲスト出演した際に「家にはやかんすらない」と語っていた。また、「キッチンを汚したくないから」と料理を一切拒否したため、それが原因で離婚された。80代になってようやく包丁を購入したという。但し、前述のように裁縫は得意であり、幼少期から編み物やお人形の着物を縫うなど手先が器用なエピソードを母のあぐりが語った事がある。
ベスト映画アンケートでラスト・タンゴ・イン・パリを一位にしスピルバーグ激突!やサム・ペキンパーのガルシアの首、ドイツ映画のブリキの太鼓、ローズマリーの赤ちゃん、映画に愛をこめて アメリカの夜、グロリアなどを入れ、ガルシアの首で木の下で主人公ベニー(ウォーレン・オーツ)が愛や夢を語らうシーンで泣いたと書き、好きな男優にバート・ランカスターを女優にミア・ファローを挙げ、また同アンケートで兄の淳之介やピーコ、おすぎも参加しており、淳之介も激突!、おすぎ&ピーコもラスト・タンゴ・イン・パリを入れている[8]