吉福伸逸
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吉福 伸逸(よしふく しんいち、1943年9月16日 - 2013年4月29日)は、著述家、翻訳家、セラピスト[1]
略歴

下津井電鉄株式会社第4代社長の吉福寿の長男として岡山県倉敷市に生まれる。実家は下津井電鉄の経営者一族で裕福な家だった[2]

早稲田大学高等学院を経て1966年早稲田大学文学部西洋史学科中退後、アメリカのカリフォルニアに渡り、バークレー音楽院で学び、ベトナム戦争サイケデリック・カルチャー全盛期のアメリカで、ジャズベーシストとして活動。世界中から集まってくるジャズミュージシャンたちの演奏に衝撃を受けてジャズベーシストを辞め、葛藤の中、カルロス・カスタネダの『ドン・ファンの教え』と出会ったことで、米国西海岸を中心に花開いていたカウンターカルチャーの渦に身を投じ、1972年からカリフォルニア大学バークレー校サンスクリット語、東洋思想を学び、東西の哲学や心理学、神秘思想、精神療法などを探求するグルジェフィアンの哲学教授ジェイコブ・ニードルマンのグルジェフ研究会に入っていた[2][3]ヒューマンポテンシャル運動の中心地エサレン研究所にも熱心に通った[4]。74年に帰国し翻訳者となる。

阿含宗系の平河出版社の雑誌「ザ・メディテーション」2号(1978年)で、仏教インド哲学の本を中心に紹介する特集「精神世界の本ベスト100」を編集しており、70年代当時はインド哲学の紹介者の面が大きかった[2]。この特集では、世界中のヒッピーのバイブルだったラム・ダスの『ビー・ビア・ナウ』や、エサレン研究所で学び親しくしていたフリッチョフ・カプラの『タオ自然学』なども紹介している[2][4]。稲葉小太郎によると、「Spiritual」の訳語である「精神世界」という言葉を、現在のスピリチュアル系につながる一種のカテゴリー、キャッチフレーズとして使ったのは、吉福、翻訳者のおおえまさのり、平河出版社社員で「ザ・メディテーション」の編集長だった三澤豊が最初である[2][5]。1979年に『ビー・ヒア・ナウ』の翻訳を先導し上野圭一と共訳し刊行(出版社はエイプリル・ミュージック、のち平河出版社)[4]。ここから精力的に活動を始めるようになったが、当時の日本には変性意識状態の研究者はおらず、インド哲学スーフィズム(イスラム神秘主義)、ドラッグサイケデリック・カルチャー)、ジャズ、ニューサイコロジーすべてに精通している人物はいなかったため、すぐに注目を集めるようになった[4]。同年にC+Fコミュニケーションズ、C+F研究所を創設。

1980年には別冊宝島『精神世界マップ』を世に出した。10年間に30冊以上というハイペースでニューエイジ関連文献の翻訳を行い、吉福を中心としたグループも積極的に文献翻訳を行い、工作舎春秋社青土社平河出版社などから出版することで、日本に「精神世界」を出現させるきっかけをつくった[6]。(この辺りの詳細は、稲葉小太郎の『仏に逢うては仏を殺せ』に書かれている[6]。)

C+Fコミュニケーションズ、C+F研究所では、スタニスラフ・グロフトランスパーソナル心理学を導入し、ケン・ウィルバーらのニューサイエンス(ニューエイジサイエンス)の紹介に努めた[4]。1980年代には翻訳と並行しワークショップも盛んに行っており、機械的に反応するだけの自我に留まらない人間の可能性を追求し、「『今、ここ』のリアルな瞬間に存在し、関わること」を重視する実存的なセラピーを行い、初期のワークのベースはグルジェフ・ワークやゲシュタルト・セラピーだった[7]。グロフのトランスパーソナル心理療法は元来LSDを活用したが、LSDはアメリカでも日本でも禁止になったため、LSDが引き起こすような変性意識状態に人を導くホロトロピック・ブレスワークを用いるようになっており、ホロトロピック・ブレスワークのセラピーを行った[4][7]。独特の声と存在感で対面で人を魅了する力が大きく、文章よりも、ダイアローグ(対話)を通して人を感化する人物だったという[2]

日本に初めてニューエイジ、ニューサイエンス、トランスパーソナル心理学などの分野を体系的に紹介し[1]、人気を博し、哲学者の湯浅泰雄と並行してニューサイエンスの日本への普及を牽引した[6]。その後も、トランスパーソナル心理学をはじめとするカウンターカルチャーを源流とする文化を日本にもたらし、民間セラピストとしても多くの影響を与えた[2]。稲葉は、精神世界の自己探求的な部分は吉福の影響があると思われ、一方、彼が日本に紹介しようとしたインド由来の解脱を目指す思想がオウム真理教へとつながった面もあると、功罪の両面を指摘している[2]

心理学者の河合隼雄、ソニー創業者の井深大、現代美術家の杉本博司、AIBOの開発に携わった天外伺朗、京セラの稲盛和夫、編集者の松岡正剛、マンガ家の真崎守、ニューエイジ的なものを日本に導入した社会学者の見田宗介(真木悠介)・雑誌「宝島」の編集長北山耕平など、広範な交遊・影響関係があった[2][4]。トランスパーソナル心理学は日本ではあまり受け入れられなかったため、関連する訳書はそれほど売れず、社会へのインパクトは限られていた[2]。人に頼られることが増えて負担になり、また、一時的な非日常体験(ワークショップ)で根本的にトラウマや傷を癒すことはできないと感じ、人里離れた田舎で静かに暮らしたいと思うようになり、1989年にはハワイに移住し、家族との生活とサーフィンを中心に暮らした[8][2]

2000年代には、ソマティック(Somatic experiencing)と呼ばれる身体心理学的アプローチを多用し、ゲシュタルト療法精神分析療法、イメージ療法、フォーカシング、ドラマセラピー、さらにトランスパーソナルの分野ではあまり重視されない認知行動療法も取り入れ、トランスパーソナルの枠に収まらない統合的なワークショップを行っていた[9]。2013年4月に70歳で死去[10]

人がだれでも自我を確立しているわけではなく、「誰もが自我を確立させるだけの余裕を社会はくれない。そのために合理精神で自らの大切な部分を切りさいなみながらごまかして、あたかも自分だけは自立しているかのように社会的に見せている。」とみなし、その反動で身近な弱い存在に当たってバランスをとっているのだと考えていた[8]。不完全な自我は、発達段階で不健全な形で自我の固着(フィクセーション)が起こるためで、「フィクセーションとは、成長発達の過程で特定の部分であるとか特定の認識に固着してしまってそこから離れることができないということです。そのために健全な発達を阻害してそこから発達していないわけです。逆行といいますか、専門用語でいうと、発達停止ということです。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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