吉祥寺
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「吉祥寺」のその他の用法については「吉祥寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
駅前北口広場吉祥寺上空からの航空写真。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

吉祥寺(きちじょうじ)は、東京都武蔵野市の東部に位置する地域。吉祥寺駅を中心とした商業地繁華街)のほか、郊外高級住宅街となっている。

由来は旧北多摩郡吉祥寺村であり、武蔵野市(武蔵野村・武蔵野町を含む)に1889年明治22年)から1962年昭和37年)までは大字として存在した。
地理

武蔵野市の東端に位置する。現在、武蔵野市内で町名に「吉祥寺」を冠する地区は、吉祥寺本町(ほんちょう、一丁目?四丁目)、吉祥寺北町(きたまち、一丁目?五丁目)、吉祥寺東町(ひがしちょう、一丁目?四丁目)、吉祥寺南町(みなみちょう、一丁目?五丁目)があり、これらを合わせた面積は4.21km2で武蔵野市全体の約38%を占める[1]。さらに御殿山(一丁目・二丁目)と中町(一丁目?三丁目)を合わせた範囲がかつての大字吉祥寺である。

街はJR中央線および京王井の頭線吉祥寺駅を中心として碁盤の目状に広がっている。小高い台地の上の平坦な場所にひらけているが、南端で三鷹市井の頭と接する付近のみ傾斜地になっている。

1957年(昭和32年)からの旧国鉄中央線高架複々線化計画に対応するため、吉祥寺駅周辺都市計画調査特別委員会が1960年(昭和35年)に設置され、また同年に国立市へ移転する東京女子体育短期大学跡地の貸借権を買収。これらを受けて東京大学工学部都市工学科高山英華研究室に委託した吉祥寺駅周辺都市計画案と、これをベースに昭和40年代から当時の武蔵野市長に就任した後藤喜八郎の下で構想された「回遊性の高い街づくり」を実現するため、吉祥寺駅を中心とした東西南北の十字線上に四つの大型商業施設が設置されている。なお、高山が都市計画案の作成にあたって参考にしたのは、オランダロッテルダムのライバーン商店街だと言われている[2]2010年2月時点でこれらの商業施設群に入居しているテナントは、東=ヨドバシカメラマルチメディア吉祥寺、西=東急百貨店、南=丸井、北=コピス吉祥寺である。これら四つの大型商業施設の合間を埋めるように中小のビル群が立ち並び、多種多彩な商店や飲食店が軒を連ね、いくつかの商店街を形成している。代表的な商店街としてサンロードハモニカ横丁、平和通り、ダイヤ街などが挙げられる。

商業地域の外郭は東京多摩地域有数の高級住宅街で、多種多様な著名人等も居住している。商業地域と住宅街の近接性、新宿駅渋谷駅など主要駅に電車一本でアクセスできる利便性、井の頭恩賜公園三鷹の森ジブリ美術館などの行楽地が至近であることにより、市場調査会社などが主催する「住みたい街ランキング」で度々全国第一位に選出されている。

また、吉祥寺地域は古くから安養寺、光専寺、蓮乗寺、月窓寺という4軒の寺が集まる寺町である。特に寺が集中している武蔵野八幡宮(八幡神)の付近の地域を「四軒寺」(しけんでら)と呼ぶようになっていったと語り伝えられている。吉祥寺通り東京都道116号関町吉祥寺線)と女子大通りの交差点を「四軒寺交差点」と称する。なお、四軒寺という名前の寺があるわけではない。
範囲

前述の通り、吉祥寺本町、吉祥寺北町、吉祥寺東町、吉祥寺南町を合わせた範囲が現在最も狭義での「吉祥寺」であり、さらに御殿山と中町を合わせた範囲がかつての大字「吉祥寺」である。後者の場合は三鷹駅に面した場所も含まれる。

一方「吉祥寺駅周辺」の意味で用いられる「吉祥寺」は、この範囲とは若干のずれがある。例えば武蔵野市御殿山と三鷹市井の頭にまたがる井の頭恩賜公園は「吉祥寺にある公園」と見なされている。『Hanako』(マガジンハウス)などの雑誌の吉祥寺特集では、吉祥寺駅から概ね1kmの範囲を「吉祥寺」と呼ぶこともあり、東は杉並区松庵西荻北、西は三鷹市下連雀、南は三鷹市井の頭や牟礼、北は練馬区立野町近辺までを含むこととなる。

人気のある地名であることから、不動産会社では三鷹市井の頭や下連雀、練馬区立野町にあるアパート・マンションを「吉祥寺の物件」として紹介していることが多い。また、京王線千歳烏山駅仙川駅つつじヶ丘駅などから徒歩でアクセス可能の三鷹市内の物件の場合でも、「吉祥寺からバスで?分」と紹介される場合がある。

「吉祥寺通り」周辺では、吉祥寺の名前を一部に冠する事業所やマンション等が、駅から2-3km離れた相当遠方まであり、北は練馬区関町南の店から、南は三鷹市新川の物件まで存在する。
交通
鉄道・バス

吉祥寺駅を参照。
道路

吉祥寺は下記の主要路線が交わり、各道路が東西南北に平行し、その囲まれた真ん中に吉祥寺駅及び中心街が広がる構造になっている。吉祥寺大通りを除いて車線数や車線幅は広くない。詳細は各道路の記事を参照。

東西

井の頭通り(南側)

五日市街道(北側)


南北

吉祥寺通り(西側)- 駅南側は「公園通り」とも呼ばれる。

吉祥寺大通り(東側)


歴史

明暦3年(1657年)、明暦の大火で江戸本郷元町(現在の文京区本郷一丁目東京都立工芸高等学校付近)に存在した諏訪山吉祥寺門前町が焼失した際、江戸幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することにした。そのため、吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を大幅に失った者達に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の場を代地とし、5年期限で扶持米を与えて家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募った。吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させた。

折しも玉川上水の開通に伴い、かつては水利が悪く人跡が少なかった武蔵野台地新田開発によって広大な農地へと変わっていく過程で、五日市街道(現在の東京都道7号杉並あきる野線)沿いに整然と区画された短冊状の土地が形成された。移住者によっては、五日市街道から玉川上水の分水である千川上水に至るまでの区画、600余(1,000m以上)にも及ぶ長大な土地を与えられた者もいた。しかし関東ローム層である土壌は肥沃とは言えず、農地は全て畑地であり、水田はなかった。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、新田は吉祥寺村と名付けられた。

1923年大正12年)の関東大震災を契機に被災した市街地から多くの人たちがまたもや吉祥寺に移り住むことになり、人口が急増。美しいケヤキ並木でも知られる成蹊学園池袋から移転したこともあって、農村から住宅街、そして多くの商店や学生で賑わう街へと変貌を遂げることになった。

1971年(昭和46年)の吉祥寺大通り完成を機に、商業地として本格的に発展するようになり、ファッション・文化、居住でも人気が高い街となった。その反面として、吉祥寺駅北東の近鉄百貨店裏に「近鉄裏」と俗称される風俗街が1970年代に形成された。市による環境浄化条例や客引き規制条例の制定、土地買い上げと風俗営業法の規定を利用した吉祥寺図書館建設による牽制などで、風俗店はピークの1970年代末の約90軒から十数軒へ激減した[3]


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