吉田_(京都市)
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 近畿地方 > 京都府 > 京都市 > 左京区 > 吉田 (京都市) 吉田神社(吉田神楽岡町)の節分大祭 / この界隈が最も賑わいを見せる時季の一つである。

吉田(よしだ)は、京都府京都市左京区南部の地名(広域地名)。ここでは「吉田」を冠称する左京区内の各町の総称として用いる。目次

1 概要

2 沿革

2.1 古代・中世?陵墓の地から山荘の地へ

2.2 近世?信仰の地から諸藩の拠点へ

2.2.1 信仰の地として

2.2.2 幕末期・尾張藩邸の建設


2.3 近現代?近郊農村から文教地区へ

2.3.1 文教地区への変貌と学生街の形成

2.3.2 市電開通と市街地の整備

2.3.3 左京区役所の設置と移転



3 地域内の町名・地誌

4 交通

4.1 公共交通機関


5 諸機関・施設

5.1 公共機関

5.2 教育機関

5.3 宗教施設

5.4 文化施設

5.5 商業施設

5.6 その他


6 史跡・遺跡

7 脚注

8 参考文献

9 関連項目

概要 京都大学吉田キャンパス(吉田本町)

左京区の南部に位置し、吉田山(神楽岡)を中心とする丘陵部、およびその西側の台地一帯からなる。北は今出川通を挟んで田中・北白川、東は浄土寺・黒谷町(金戒光明寺(黒谷寺))、南は岡崎・聖護院、西は鴨川を挟んで上京区に接する。境域はかつての京都府愛宕郡吉田村(郡区町村編制法による)、および京都市編入(1889年)後の上京区吉田町の村域にほぼ相当する。この境域のかなりの部分が吉田神社を中心とした吉田山の緑地、および京都大学吉田キャンパスが占めていることから、住宅地であると同時に、学生向けの定食屋・喫茶店などが多く立地する学生街としての性格も併せ持っている。一部を除き小学校区は第四錦林学区、中学校区は近衛学区に属する。
沿革「吉田山 (京都市)」および「京都大学吉田キャンパス」も参照
古代・中世?陵墓の地から山荘の地へ

「吉田」の地名は平安時代の文献に登場する古くからの地名で、早いものでは『日本紀略』の貞元2年(974年)4月辛亥条に現れる。この時期には山城国愛宕郡錦部郷に属し、古い時代には「吉田野」と称されて遊猟が行われたほか、平安京の葬地であった神楽岡(吉田山)の西側に位置する関係もあって、天皇・皇族や貴族の陵墓の地であった(現在でも多くの陵墓が残されている)。また藤原氏の氏神である吉田神社貞観年間(9世紀後半)に建立され、当時の公家たちはしばしばこの地に参詣した。

その後、平安末期から鎌倉時代にかけて公家の山荘が造営されるようになり、鴨川東岸に面し「近衛河原亭」と呼ばれた武将・源頼政の邸宅(吉田下阿達町付近)のほか、現在の百万遍交差点付近に所在していたとされる西園寺公経小倉百人一首の「入道前太政大臣」)の別荘「吉田泉殿」はよく知られている。室町時代には応仁の乱において細川勝元が東陣(東軍の本営)をこの地においたとする説もある。

また鴨川対岸の荒神口を起点とし、この地区を斜めに貫いて北上する志賀越道は、隣接する白川村(現在の北白川)を経て近江国方面とつながる古来からの重要な街道であり、戦国時代末期には織田信長がその上洛に際し東から大軍を率いてこの街道を通っている。
近世?信仰の地から諸藩の拠点へ
信仰の地として

江戸時代になってこの地区は愛宕郡吉田村としてまとめられ、村の大半が吉田神社の神職である吉田家の所領地となっていた。吉田神社は相変わらず多くの人々の信仰を集め[1]、幕末期には神楽岡の南に新たに黒住教の教祖・黒住宗忠を祀る宗忠神社が造営されるなど、宗教地区として知られていた。その一方で、この時代の水運の発達や陸上交通の主要路が三条街道東海道)に移動したことで、村内を通る主要街道であった志賀越道の重要性も次第に低下していった。
幕末期・尾張藩邸の建設

同じ幕末期には京の政情不安定に備えて上洛する各藩の藩士・志士が増加し、鴨川を挟んで御所に近い吉田の地は各藩の新たな拠点の候補地として注目を集めることとなった。このなかで会津藩が現在の京大吉田キャンパス薬学部構内・東南アジア研究所付近に藩邸をおき、さらに元治元年(1864年)には尾張藩が現在の京大吉田キャンパス本部構内に相当する敷地に下屋敷をおき、下級藩士を住まわせた。この藩邸の建設は吉田村の主要な交通路を変えることとなった。すなわち、藩邸が南側の東西通り(現在の東一条通(吉田参道))に正面を向けて造営されたことにともない、吉田神社は、南側の大元宮へとつながる従来の参道に代えて、当時名前もなかったこの東西通りを新たな参道として整備したため、東一条通がこの地区の主要路の一つとなった。さらに、先述したように次第に街道としての重要性が薄れつつあった志賀越道は、尾張藩邸敷地によって途中をふさがれ通りとしては中断する形になり、現在に至っている。なお現在も東大路通り東側に残る石垣はこの尾張藩屋敷を取り囲む石垣として建設されたものである。
近現代?近郊農村から文教地区へ
文教地区への変貌と学生街の形成

明治元年(1868年)、吉田村は京都府に属することになった吉田村は、もともと大根菜種などの畑が広がる近郊農村であったが、1887年には京都府より会津藩下屋敷跡地の払い下げを受けて京都織物会社が設立されるなど、近代化の波が及ぶようになり、1889年には市町村制施行によりこの地区は京都市上京区に編入され「吉田町」と改称された。そして翌1890年吉田山西麓の字冠石(現在の吉田本町)の尾張藩屋敷跡地に第三高等中学校(のち第三高等学校)が開校したことで、吉田地区の景観は本格的に変化することとなる。さらに1897年、第2の帝国大学である京都帝国大学が第三高等学校からの校地の譲渡を受けて開校し、三高は代替の校地として近衛参道南側に移転すると、以降近隣の吉田地区ではこの2校が校地を拡充するとともに、学生のための貸家・飲食店・雑貨店が開業し学生街が形成されるに至った。1902年には京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)が現在の京大「西部構内」[2]1905年に精華女学校(現・京都精華学園中学校・高等学校)が現校地、1907年に京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)が現在の京都大学大学院「思修館」校地に開校・移転し[3]、吉田地域は市内でも有数の文教地区となるに至った[4]


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