吉田豊作
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よしだ とよさく
吉田 豊作
1923年の写真。
本名川崎 順次郎(かわさき じゅんじろう)
生年月日 (1888-05-05) 1888年5月5日
没年月日 (1940-06-01) 1940年6月1日(52歳没)
出生地 日本 広島県佐伯郡厳島町(現在の同県廿日市市宮島町
同県広島市大須賀町41番地(現在の同県同市東区大須賀町)
身長161.2cm
職業俳優
ジャンル新派劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー
活動期間1908年 - 1936年
配偶者有
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吉田 豊作(よしだ とよさく、1888年5月5日 - 1940年6月1日[1])は、日本の俳優である[2][3][4][5][6][7][8]。本名川崎 順次郎(かわさき じゅんじろう)[2][3]新派井上正夫門下の女形から、映画俳優になったことで知られる[2][3]
人物・来歴

1888年明治21年)5月5日広島県佐伯郡厳島町[2](現在の同県廿日市市宮島町)、あるいは同県広島市大須賀町41番地[3](現在の同県同市東区大須賀町)に生まれる[2][3][4]

旧制・厳島尋常小学校(現在の廿日市市立宮島小学校)を卒業後、1908年(明治41年)、同県呉市の呉座に下田平作の一座が巡業で来たときにこれに加入して俳優となり、以降、井上正夫の門下に入る[2][3]日本映画データベース、ならびに文化庁の「日本映画情報システム」によれば、1915年(大正4年)9月に公開された『塔上の秘密』(監督井上正夫吉野二郎)に井上とともに出演しており、本作を製作・配給した天然色活動写真(天活)で、翌1916年(大正5年)までに井上とともに数本に出演している[5][6]。1917年(大正6年)には、同社の創立者である小林喜三郎小林商会で、井上とともに映画に出演している[5][6]。1920年(大正9年)には国際活映に井上が招かれて同社が新設した角筈撮影所に入社、吉田もこれに同行している[2][5][6]。『日本映画俳優全集・男優編』における田中純一郎の記述によれば、翌1921年(大正10年)4月24日に公開された『寒椿』(監督畑中蓼坡)が井上正夫の初主演作であり、吉田豊作の映画デビュー作であるとのことだが[2]、上記のように井上も吉田も、すでに天活・小林商会で多くの出演作があった[5][6][9]。田中によれば、同撮影所では、3作の井上主演作が計画されていたが、第3作『水彩画家』のセット撮影寸前の同年7月に撮影所が閉鎖され、製作が中止になったという[2]

1922年(大正11年)、井上とともに、松竹蒲田撮影所に移籍、翌1923年(大正12年)4月1日に公開された『噫無情 第一篇 放浪の巻』(監督牛原虚彦)に出演、主役のジャン・ヴァルジャンを演じる井上を、ミュリエル復正の大役で支えたが、この『第一篇』を最後に井上一座を離れ、日活向島撮影所に移籍している[2][5][6]。同年に発行された『現代俳優名鑑』によれば、吉田は「崇拝」の欄に「井上正夫氏」と答え、「系統」は「松竹キネマ」でありながら「出勤」(勤務先)は「日活撮影所」と答えている[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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