吉田茂
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この項目では、内閣総理大臣について記述しています。その他の同名の人物については「吉田茂 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

洋画家の「吉田苞」とは別人です。

日本政治家吉田 茂よしだ しげる

生年月日1878年9月22日
出生地 日本 東京府神田区駿河台
(現・東京都千代田区
没年月日 (1967-10-20) 1967年10月20日(89歳没)
死没地 日本 神奈川県中郡大磯町
出身校学習院大学科中退(大学科閉鎖による)
東京帝国大学法科大学政治科卒業
前職待命大使
所属政党(無所属貴族院議員)→)
日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
無所属→)
自由民主党
称号従一位
大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
勲二等旭日重光章
勲二等瑞宝章
法学士(東京帝国大学・1906年
配偶者吉田雪子(先妻)
吉田喜代(後妻)
子女吉田健一(長男)
吉田桜子(長女)
吉田正男(次男)
吉田江子(次女)
麻生和子(三女)
親族大久保利通(義祖父)
三島通庸(義祖父)
竹内綱(父)
吉田健三(養父)
牧野伸顕(岳父)
竹内明太郎(兄)
麻生太賀吉(娘婿)
麻生太郎(孫)
ェ仁親王妃信子(孫)
サイン
第45・48-51代 内閣総理大臣
内閣第1次吉田内閣第2次吉田内閣
第3次吉田内閣
第3次吉田第1次改造内閣
第3次吉田第2次改造内閣
第3次吉田第3次改造内閣
第4次吉田内閣
第5次吉田内閣
在任期間1946年5月22日 - 1947年5月24日1948年10月15日 - 1954年12月10日
天皇昭和天皇
第65・69-70代 外務大臣
内閣東久邇宮内閣
幣原内閣
第1次吉田内閣第2次吉田内閣
第3次吉田内閣
第3次吉田第1次改造内閣
第3次吉田第2次改造内閣
第3次吉田第3次改造内閣
在任期間1945年9月17日 - 1947年5月24日(1946年5月22日から総理兼任)1948年10月19日 - 1952年4月30日(総理兼任)
第5代 農林大臣
内閣第1次吉田内閣
在任期間1947年1月30日 - 1947年2月15日(総理兼任)
第2代 第一復員大臣
第2代 第二復員大臣
内閣第1次吉田内閣
在任期間1946年5月22日 - 1946年6月15日(総理兼任)
衆議院議員
選挙区高知県全県区
当選回数7回
在任期間1947年4月25日 - 1963年10月23日
その他の職歴
貴族院議員
(1945年12月19日 - 1947年5月2日
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吉田 茂(よしだ しげる、1878年明治11年〉9月22日 - 1967年昭和42年〉10月20日)は、日本外交官政治家位階従一位勲等大勲位。旧姓・竹内。

内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)(第4548495051代)、外務大臣(第7374757879代)、農林大臣第5代)、第一復員大臣第2代)、第二復員大臣第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)を歴任した。

東久邇宮内閣幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。

優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板し、かつ長期政権を築いた者は吉田と安倍晋三の2人のみである。

政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学において総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人理事長にあたる舎長に就任した。

なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣厚生大臣小磯内閣軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人で、当時からよく間違えられた。(吉田茂 (内務官僚)#同姓同名 参照)
生涯
生い立ち

1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区[注釈 1]に生まれる[2]。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった[1]。実母の身元はいまでもはっきりしない[1]。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ[1]小学時代の吉田

吉田の実父と養父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新(めいじいしん)をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった[3]。その養母は徳川期儒学の所産であった[3]

1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる[2]ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という[4]。養父・健三が40歳で死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した[2]。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などと言っている[5]
学生時代

少年期は、大磯町西小磯で養母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。

同年9月から、日本中学(日本学園中学校・高等学校の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校一橋大学の前身)に籍を置くが、商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶應義塾東京物理学校東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制学習院高等科学習院大学の前身)を卒業した。

同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)9月に無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅の他、武者小路公共池邊龍一林久治郎藤井實らがいた。
外交官時代

1918年山東省済南領事として勤務していた吉田は、岳父の牧野伸顕と共にパリ講和会議に出席した[6]。当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる[7]。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満洲事変以後もその点で一貫していた[8]中華民国奉天総領事館総領事を務めた時代に東方会議へ参加。


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