吉田義男
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吉田義夫」、「吉田好雄」、あるいは「吉田栄夫」とは別人です。

吉田 義男
基本情報
国籍 日本
出身地京都府京都市中京区
生年月日 (1933-07-26) 1933年7月26日(90歳)
身長
体重165 cm
56 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手二塁手
プロ入り1953年
初出場1953年3月28日
最終出場1969年10月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


京都府立山城高等学校

立命館大学(中退)

大阪タイガース
阪神タイガース
(1953 - 1969)

監督・コーチ歴


阪神タイガース (1969, 1975 - 1977, 1985 - 1987, 1997 - 1998)

野球フランス代表

パリ大学クラブ (1990 - 1993)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1992年
選出方法競技者表彰
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

吉田 義男(よしだ よしお、1933年7月26日 - )は、京都府京都市中京区出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・コーチ監督野球解説者野球評論家タレント甲子園歴史館の運営会議顧問[1]である。

現役時代は「牛若丸」と称され、華麗かつ堅実な守備で知られた守備の達人であった。引退後は3度にわたって阪神タイガース監督を務めた。阪神を初めて日本一に導き、また阪神の監督を3度経験した唯一の人物である。

ニックネームは「よっさん」。1989年から1996年まで野球フランス代表監督を務め、「ムッシュ」とも呼ばれる。甥の谷真一近鉄バファローズの元プロ野球選手。
経歴
アマチュア時代

旧制京都市立第二商業学校(京都二商)在学中、名古屋金鯱軍監督だった岡田源三郎や、阪急ブレーブス浜崎真二監督にその才能を認められるなど、プロから注目されていた。戦後の学制改革による京都二商の廃校に伴い新制府立山城高校に編入学。浜村淳山城新伍釜本邦茂・元毎日放送アナウンサー野村啓司は高校の後輩である。

1950年、高校2年の夏の甲子園遊撃手として出場するも、1回戦で北海高等学校に敗退。1年上のチームメイトに捕手の川本浩司(大映スターズ)がいた。翌1951年、高校3年の夏の甲子園府予選は、決勝で清水宏員、上市明(大映スターズ)のバッテリーを擁する平安高等学校に完封負け、京津大会には進めなかった。

卒業後は立命館大学に進学し、1年生からレギュラーとして活躍。しかし1953年に中退し、阪神タイガースに入団。大学時代の野球部同期に西尾慈高投手がいるが、のちに中退し阪神入団。他の同級生には俳優の長門裕之がいるが長門も中退している。

阪神入団の経緯は、阪神スカウト・青木一三からの勧誘で、殺し文句は「藤村富美男さんが『君なら絶対プロでやっていける』と言っている」というものだった。しかしこの話は青木の創作で、藤村はおろか阪神の他の選手の誰も吉田のことは知らなかった[2]。なお、真偽は不明だが報告を聞いて立命館時代の吉田に興味を示した阪急の浜崎真二監督が、吉田の体格を聞いた途端「そんな小柄な選手が採れるか」と一蹴したという逸話があり、浜崎の身長が小柄な吉田より、さらに約10cmも低かったことからユーモラスな挿話として有名になった[注 1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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