よしだちょう
吉田町
法華津峠
吉田町旗吉田町章
吉田町旗吉田町章
廃止日2005年8月1日
廃止理由新設合併
宇和島市、吉田町、三間町、津島町 → 宇和島市
現在の自治体宇和島市
廃止時点のデータ
国 日本
地方四国地方
都道府県愛媛県
郡北宇和郡
市町村コード38481-0
面積48.16 km2
総人口12,292人
(2004年10月1日)
隣接自治体西予市、宇和島市、北宇和郡三間町
町の花ミカン
町の鳥メジロ
吉田町役場
所在地〒799-3792
愛媛県北宇和郡吉田町大字東小路甲70番地
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度16分47秒 東経132度32分25秒 / 北緯33.27975度 東経132.54014度 / 33.27975; 132.54014 (吉田町)
吉田町(よしだちょう)は、愛媛県の南予地方にあった町。北宇和郡に属していた。合併により、現在は宇和島市の一部となっている。
日本一のミカン産地であるとともに、水産業も盛んである。旧吉田藩の陣屋として栄えた歴史がある。 愛媛県の南西部、宇和島市のすぐ北に隣接している。宇和島市内中心部から約9km、宇和町卯之町からは約9.5 km。宇和海に突き出した半島と付け根の部分とからなっている。古くは宇和島街道
地理
位置・地形
急傾斜地が多く、平地はわずかに10%程度である。正面の宇和海では真珠・ハマチ養殖が盛んで筏が並んでいる。その背後の山々には山頂近くまで果樹園が切り開かれており、両者が相まって当地独特の景観を形成している。
江戸時代は伊予吉田藩の陣屋町。三河吉田藩のあった三河国吉田宿が明治以後豊橋に改名するきっかけの一つである。 吉田という名がいつごろからあったかははっきりしない。 一つの説には、この地がヨシの群生する湿田であったことから、よしだとなったとする。吉田藩の分立時の古文書に「吉田新田」の名が見え、このころには吉田という呼称が成立していたものと推定される。
山: 高森山、遠見山
町名の由来
歴史
藩政期
伊予吉田藩に属した。詳細は、伊予吉田藩を参照のこと。
明治以降
明治10年代 - 藩政期末期に土佐から持ち込まれたミカンの栽培が盛んになり、全国の品評会で一等の栄誉に輝くもの(明治17年)もあった。
1880年(明治13年) - 楽終社、南鉾社が成立され金融業を営む。後にそれぞれ、吉田商業銀行、伊予吉田銀行と改称。
1884年(明治17年) - 宇和島 - 大阪航路の寄航始まる。
1889年(明治22年) - 東小路、西小路、北小路、本町、裡町(うらまち)、魚棚町(うおたなまち)の合併により、吉田町成立。
明治末期から大正にかけて養蚕が盛んに営まれ、当初は士族の授産として始められたが、技術発展もあって一時は10の製糸工場が操業していた。後に、第一次世界大戦後の不況により、衰退していった。
1916年(大正5年) - 伊予吉田銀行を第二十九銀行が吸収。
1917年(大正6年) - 山下実科高等女学校開校。
1920年(大正9年) - 宇和島 - 卯之町(東宇和郡宇和町)間に路線バス開通。
1930年(昭和5年) - 吉田商業銀行を第二十九銀行が吸収。
1938年(昭和13年) - 北宇和郡立間尻村を編入。
1941年(昭和16年) - 国鉄の宇和島駅と卯之町駅の間が開通。伊予吉田駅設置。
1955年(昭和30年) - 北宇和郡奥南村、立間村、喜佐方村、東宇和郡玉津村、北宇和郡高光村の一部(知永)と合併、吉田町となる。
1966年(昭和41年) - 昭和天皇、香淳皇后が第17回全国植樹祭に合わせて県内を行幸啓。