吉田満
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吉田満
誕生
1923年1月6日
日本東京市赤坂区青山北町(現・東京都港区北青山
死没 (1979-09-17) 1979年9月17日(56歳没)
日本・東京都港区・厚生年金病院
職業作家、銀行員
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京帝国大学法学部
活動期間1946年-1979年
ジャンル戦記評論
代表作『戦艦大和ノ最期
配偶者中井嘉子
子供未知(長女)、望(長男)
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吉田 満(よしだ みつる、1923年〈大正12年〉1月6日 - 1979年〈昭和54年〉9月17日)は、日本の作家。日本銀行職員[1][2]。キリスト者[3]

大日本帝国海軍における戦時体験をもとにした戦記を残すとともに、日本銀行職員の要職を歴任する傍ら、「戦中派」として独自の著作活動や言論活動を続けた。代表作の『戦艦大和ノ最期』は、映画化、長時間テレビドラマ化もされ、海軍での上官であった臼淵磐も吉田の著作を通しても広く知られるようになった。
生涯・経歴
生い立ち

1923年(大正12年)1月6日、父・吉田茂と母・ツナの長男として、東京市赤坂区青山北町(現・東京都港区北青山)で誕生[1]。上には姉の瑠璃子がいた[1]。同年の9月の関東大震災のため、その後一家は渋谷町(現・渋谷区)に移った[1]。満6歳の1929年(昭和4年)4月に、東京府豊多摩郡渋谷村長谷小学校に入学し、この年に一家は恵比寿西に転居した[1]

吉田満の父母は富山県の出身であったが、吉田家の先祖は、もとは天皇家から臣籍降下した京都の公卿の家柄で、吉田神社とも縁が深く、祖先の1人には画家の吉田公均がいた[4][5]

満12歳となった1935年(昭和10年)の4月に、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に入学[1]。卒業後の1939年(昭和14年)4月には、旧制東京高等学校に入学[1]。この頃からバッハの音楽に傾倒し愛好した[1]。在学中には2度の停学処分を受けたこともあった[1]

父・茂は約25年間務めた商事会社から1938年(昭和13年)に独立して友人2人と共に小さな電設工事会社を興した[4]
学徒出陣

満19歳となった1942年(昭和17年)の4月、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)に入学[1]。この年の11月に姉・瑠璃子は細川宗平と結婚した[1]

満20歳となった1943年(昭和18年)10月の学徒出陣により、12月から海軍二等水兵として武山海兵団に入団[1]。翌年1944年(昭和19年)2月に、海軍兵科第四期予備学生となり、7月に予備学生隊として海軍電測学校に入校[1]。同月に帝大法学部を卒業した[1]。この同月には、義兄・細川宗平が中国にて戦病死となった[1][注釈 1]

同年の1944年(昭和19年)12月、海軍電測学校を卒業した吉田は少尉(予備少尉)に任官され、戦艦大和に副電測士として乗艦を命ぜられ電探室勤務となった[1][5]

満22歳となった翌年1945年(昭和20年)の4月3日、戦艦大和に沖縄への出動命令が下り、吉田も天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加した。連合艦隊はほとんど壊滅し、護衛の飛行機も一機もない中、米艦船に埋め尽くされていた沖縄の海に向け出発した戦艦大和は7日、徳之島西北の沖にいた[5]

その運命の日、吉田は哨戒直士官を命ぜられ、艦橋にいた[5]。8回にわたる米軍機約1000機の猛攻撃を受けて、戦艦大和はあえなく沈没した[5]。吉田は頭部に裂傷を負ったものの、辛うじて死を免れた。しかしながら、多くの同胞の死を目の当たりにしたそれらの壮絶な体験は生涯消えることのない記憶となった[5]。絶え間ない炸裂、衝撃、叫喚の中で私の肉体はほしいままに翻弄された。躍り.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}匍(は)い走りすくんだ。こころは今や完全に機能を失い、感覚だけが目ざましい反応をつづけた。筋肉が神経が痙攣して、ただそれに追われるばかりであった。死が、血しぶきとなり肉片となって私の顔にまといついた。或る者は、まなじりを決したまま、一瞬飛び散って一滴の血痕ものこさなかった。他の者は、屍臭にまかれ恐怖に叩きのめされて失神し、身動きも出来ぬままなお生を保っていた。およそ人の訴えを無視し、ときとところを選ばぬ死神の跳梁、生の頂点をのぼりつめて、死の勾配を逆落ちながら、あばかれる赤裸々なその人間。蒼ざめたまま口を歪めてこときれる者。女神のような微笑みをたたえ、ふと唇をとじる者。人生のような、芝居のような、戦闘の一局面。そこでは、一切に対する、想像も批判も連想も通用しない。 ? 吉田満「死・愛・信仰」[7]

その後、吉田はまだ傷が完治していないまま入院していた病院を希望退院して特攻に志願。同年7月に高知県高岡郡須崎の回天基地(人間魚雷基地)に赴任した[5]。しかし、命ぜられた任務は特攻ではなく、基地の対艦船用電探設営隊長であった[5][8]。米軍の上陸を迎え撃つため、吉田は須崎湾の突端の久通村という部落で陣地の構築を行なった[1][5]
戦後――戦記の執筆

1945年(昭和20年)8月15日の日本の敗戦後、米軍による報復で処刑されるとの風説による須崎の久通村(須崎湾の突端の部落)の住民の願いにより、村の小学校の分教場のただ2人の教師だった夫婦の身重の夫人の代りの教員として一時そこに匿われていた[5]。しかし半月後、上官から呼び出されて叱責された吉田は、村の分教場を去ることになった[5]

東京恵比寿にあった吉田の留守宅は、前年5月の東京大空襲により焼失してしまったが、それ以前に吉田一家は西多摩郡吉野村(現・東京都青梅市)に疎開していた[5]。吉田はすぐにはそこに帰らず、しばらく吉田家の先祖に地である富山県に赴き山河を眺めてから、9月中旬に両親のいる疎開先の吉野村に帰還した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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