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よしだ えいさく
吉田 栄作
生年月日 (1969-01-03) 1969年1月3日(55歳)
出生地 日本・神奈川県
身長182 cm
血液型A型
職業俳優・歌手
ジャンル映画・テレビドラマ・舞台
活動期間1988年 - 1995年
1998年 -
配偶者平子理沙(1997年 - 2015年)
内山理名(2021年 - )
事務所フリー
主な作品
テレビドラマ
『もう誰も愛さない』
『愛さずにいられない』
『クリスマス・イブ』
『徹底的に愛は…』
『だんだん』
『天 天和通りの快男児』映画
『亡国のイージス』
『ミッドナイト・イーグル』
『真夏のオリオン』音楽
「心の旅」「もしも君じゃなきゃ」
「今を抱きしめて」(NOA名義)
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吉田 栄作(よしだ えいさく、1969年〈昭和44年〉1月3日[1] - )は、日本の俳優・歌手。神奈川県秦野市出身[1][2]。身長182cm、体重72kg[1]。血液型はA型[1]。元妻はモデルの平子理沙[3]。現在の妻は女優の内山理名[4]。 秦野市立本町幼稚園卒園[5]。秦野市立本町小学校[6]、秦野市立本町中学校[6]、神奈川県立秦野南が丘高等学校(現・神奈川県立秦野総合高等学校)[6]卒業。 16歳のとき、当時のガールフレンドに誘われて、新宿センタービルの高層階にあるお店でお茶を飲んでいたら、窓の外を見下ろすと、スクランブル交差点に行き交う人の小ささを見て、「あ、自分もあの中の一粒だな。それなら一度しかない人生なので記録に残るような人間になりたい」と、それが浜田省吾の「終りなき疾走」の歌詞のように、自身にとっては"稲妻で、次の日にはバスケ部を退部した[2][7][8]。「自分の場合は芸能界がそれに直結し、友人からボーカリストにも誘われてバンド活動を始める[2][7]。あの日、あそこに行ってなかったら芸能界には入っていないと思う」と話している[2][7]。 東京の俳優養成所に通い、放課後は上京に向けてアルバイトを始め、全部で4つ掛け持ちをした[8]。 高校卒業後、矢沢永吉を真似て19歳で上京するが、東京が近すぎたため、敢えて実家から遠い江戸川区平井に住む[2]。最初は小さな俳優養成所に所属し、カラオケの映像や、テレビや映画のエキストラなどをし、夜は渋谷のカフェバーでアルバイトをする[2][7]。店は渋谷ビデオスタジオに近い場所で、業界関係者がお客としてたくさん訪れ、当時は後にトレンディドラマと呼ばれるテレビドラマが業界を席捲しはじめた頃で、陣内孝則やW浅野、三上博史、石田純一らも店に来ていて、バイト中にそれを横目に「ああ、俺も出たいな」と悔しい思いをした[2]。 店の常連客だったスタイリストからフジテレビ主催の「ナイスガイ・コンテスト・イン・ジャパン」へのチャレンジを勧められ[2][7]、グランプリを受賞[2][7](彦摩呂が準グランプリ)[9]。このコンテストに来ていた東映のプロデューサーから映画『ガラスの中の少女』の後藤久美子の相手役のオーディション参加を勧められ[2][7]、これにも優勝し同作で東映からでスクリーン・デビュー[2][7]、これが正式に芸能界デビューとなる[10]。また現在のワタナベエンターテインメントの社長にスカウトされて、当時の渡辺プロダクションに所属も決まる[2]。 さらにレコード会社の東芝EMIから独立したファンハウスレコードの社長も来ていて1989年に歌手デビューも果たし、自身でも「ビッグウェーブを感じ」、とんとん拍子に成り上がる[2][7]。阿部寛、風間トオルらと共にモデルやモデルオーディション上がりという、新しいタイプのイケメン俳優のハシリとなる。それまでの「モデル上がりは顔だけで中身が無い」という風潮が、彼らの俳優としての活躍により一変することとなる。 当時のトレンディドラマにも多数主演して人気を博し、1991年当時世界的に流行し始めた「クライムサスペンス」を思わせる『もう誰も愛さない』の主演は大きな反響を呼んだ[11]。自身でも「ジェットコースターのようにどんどん展開が変わる作品で、見ているときにトイレにちょっと行って戻ったらもう3年経ってた、みたいな作品でしたね。またこの作品にはすごく残虐なシーンもあり、後に流行となるドロドロ系ドラマの先駆けだったと思います」[2]、「このドラマは22歳のときだったんですが、その時点で僕が感化された浜田省吾さんの『MONEY』の歌詞のように、僕が16歳のとき思い描いていた夢が全部叶ったんです」などと述べている[7]。これが後の渡米の初期衝動となる[7]。 歌手デビュー前に制作されたショートムービー『NO PROBLEM』(脚本・秋元康、監督・堤幸彦)では、オーディションで選ばれたキャリスタ・フロックハートと共演。当時キャリスタはまだデビューしたばかりだったが、後年、人気を博した彼女の主演作『アリー my Love』をテレビで見て、当時の共演者だと知り、驚いたという(「NO PROBLEM」は『Let's Get Out! ?20th Anniversary Best?』CD+DVD版に同梱のDVDに収録)。 1989年9月6日に「どうにかなるさ?Chasing My Dream」で歌手としてファンハウスからデビュー。同期歌手デビューに田中美奈子、田村英里子、マルシア、島崎和歌子などがいる。1990年・1991年にNHK紅白歌合戦出場(1990年は「心の旅」、1991年は「もしも君じゃなきゃ」を歌唱)。 1990年代は加勢大周・織田裕二と3人で「トレンディ御三家」「平成御三家」と呼ばれ、吉田は長男格であった。しかし、あまりにも自尊心の高さをアピールする芸風が一時一人歩きし、1995年に芸能活動を一時期休止、26歳のとき、かねてより準備していたハリウッド挑戦のため渡米[2][7]。英語に堪能となった[2]。 1998年に帰国後、吉田A作に改名。ドラマ『流通戦争』(NHK)で国内での俳優業に復帰。その後、2001年10月から2年半放送された『マネーの虎』(NTV)ではタレント・司会者としても人気を博する[2]。以来、精力的にテレビドラマや新国立劇場での舞台演劇等に出演し、優れた演技で高い評価を得る。 休止していた音楽活動も、2004年8月15日に表参道FABで行われたライブより再開し、2007年にはインディーズでミニ・アルバムを発売。2009年8月5日には音楽活動20周年を記念し、「心の旅」をセルフカバーしたシングルとファンからの投票で選曲されたベスト・アルバムが同時発売された[12]。メジャー・レーベルからのCDリリースは14年ぶり。 2009年、『an・an』No.1671合併特大号で結婚12年目で、平子理沙と夫婦初共演となるツーショットを初披露した。 2015年7月15日、出身地である神奈川県秦野市の市制施行50周年記念に制作された曲「With You ありがとう」に、10年を経て60周年記念にボランティアでレコーディングに参加、「吉田栄作版」CDを2000枚制作・販売した[13]。9月26日、秦野たばこ祭に初出演し、本町小学校のステージで楽曲を披露した[8][14]。秦野たばこ祭りには2019年[15]と2022年[16]に参加している。
来歴
幼少期 - 学生時代
下積み時代
芸能界デビュー
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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