よしだ ひでこ
吉田 日出子
『映画評論』1967年12月号より。
本名平松 日出子
生年月日 (1944-01-07) 1944年1月7日(80歳)
出生地 日本、石川県金沢市
血液型AB型
職業女優
ジャンル舞台、映画、テレビドラマ
活動期間1960年代 -
配偶者独身(未婚)
主な作品
テレビドラマ
『峠の群像』
『子供が見てるでしょ!』映画
『社葬』舞台
『上海バンスキング』
受賞
日本アカデミー賞
優秀助演女優賞
1990年 『社葬』
その他の賞
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吉田 日出子(よしだ ひでこ、本名:平松日出子、1944年1月7日 - )は、石川県出身の女優。 日出子の祖父である平松福三郎(弁護士)には11人の子がいて、娘の1人は芥川龍之介の秘書だった平松麻素子。麻素子の弟にあたる日出子の父・豊彦は1928年に東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を卒業しフランス留学[2]、彫刻家を目指すが徴兵を受け、石川県金沢に駐屯、身重の母親が臨月近くに金沢に来て次女・日出子が生まれる[1]。生後1ヶ月で父は出征、母子は新潟県に疎開した[1]。豊彦は1944年にフィリピン・レイテ島で戦死。1947年、医師だった母は娘二人を連れて東京に戻り、赤羽で医院を開業した[1]。母はその後再婚。一女をもうける。日出子は三姉妹の真ん中[1](長女は精神科医、三女は建築デザイナーである)。 東京都立北園高等学校卒業後、俳優座養成所に入る。後に劇団文学座の研究生となる。
来歴・人物
1967年、「あたしのビートルズ」「赤目」で紀伊國屋演劇賞受賞[3]。
1976年には「盟三五大切」「天守物語」で紀伊國屋演劇賞受賞[4]。
1979年の『上海バンスキング』が好評を得て、15年間の長期公演となった[1]。
1986年に「ドタ靴はいた青空ブギー」で菊田一夫演劇賞を受賞[4]。
1989年の『社葬』にて第14回報知映画賞最優秀助演女優賞・日本アカデミー助演女優賞を受賞。
1996年2月「黄昏のボードビル」の公演を最後にオンシアター自由劇場は解散した[4]。
独特の声質の持ち主であり、清水ミチコのモノマネレパートリーの1人である。
九条の会の賛同者にも名を連ねている。
2014年11月、著書「私の記憶が消えないうちに」の中で、2007年に主演舞台を降板したことに触れ、それ以前からセリフを覚えることが困難であったこと、普段通っている道でも迷ってしまうことがたびたびあったと告白。脳の検査・診断の結果、前頭葉に傷が見つかり高次脳機能障害であることが判明したと明かした。
出演
テレビドラマ
判決 第140話「不思議な老人」(1965年、NET)
細雪(1965年、NTV)
おかあさん 第2シリーズ(TBS)
第296話「麦こがし」(1965年)
第353話「克代の晴着」(1966年)
NHK劇場 愛のシリーズ(NHK)
そして夜になった(1965年)
野菜と女(1966年)
部長刑事 第391話「暗室」(1966年、ABC)
繭子ひとり(1966年、NET)
NHK劇場(NHK)
大市民(1966年)
三年目の春(1969年)
ある勇気の記録 第9話「男になりたい」(1966年、NET / 東映)
七人の刑事 第265話「二人だけの銀座」(1967年、TBS)
東芝日曜劇場 第550話「黄色い雨傘」(1967年、TBS)
泣いてたまるか 第56話「仰げば尊し」(1967年、TBS)
シオノギテレビ劇場 署名のない風景画(1967年、CX)
大奥(1968年 - 1969年、KTV) - ゆき
黒部の太陽(1969年、NTV) - 悦子
ポーラ名作劇場 第90話「不負ということ」(1969年、NET)
ドラマ特集 風待ちの港(1970年、NHK)
木枯し紋次郎(CX)
第1シリーズ 第18話「流れ舟は帰らず」(1972年) - お藤
第2シリーズ 第10話「飛んで火に入る相州路」(1973年) - お浅(お光)
グランド劇場 七回目の見合い(1972年、NTV) - 信子
赤ひげ 第21話「雪明り」(1973年、NHK) - おもん
銀河テレビ小説(NHK)
何処へ(1973年)
僕たちの失敗(1974年)
幸せのとなり(1979年)
裸足のシンデレラ(1988年)
大河ドラマ(NHK)
勝海舟(1974年) - お篠
峠の群像(1982年) - 町子
新十郎捕物帖