吉田政美
[Wikipedia|▼Menu]

吉田 政美
出生名吉田 正美
別名まちゃみ
生誕 (1952-09-29)
1952年9月29日(71歳)
出身地 日本 東京都江戸川区新潟県説もあり。)
ジャンル.mw-parser-output .hlist ul,.mw-parser-output .hlist ol{padding-left:0}.mw-parser-output .hlist li,.mw-parser-output .hlist dd,.mw-parser-output .hlist dt{margin-right:0;display:inline-block;white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dt:after,.mw-parser-output .hlist dd:after,.mw-parser-output .hlist li:after{white-space:normal}.mw-parser-output .hlist li:after,.mw-parser-output .hlist dd:after{content:" ・\a0 ";font-weight:bold}.mw-parser-output .hlist dt:after{content:": "}.mw-parser-output .hlist-pipe dd:after,.mw-parser-output .hlist-pipe li:after{content:" |\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-hyphen dd:after,.mw-parser-output .hlist-hyphen li:after{content:" -\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-comma dd:after,.mw-parser-output .hlist-comma li:after{content:"、";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-slash dd:after,.mw-parser-output .hlist-slash li:after{content:" /\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li:last-child:after{content:none}.mw-parser-output .hlist dd dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li li:first-child:before{content:" (";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li li:last-child:after{content:")\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist ol{counter-reset:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li{counter-increment:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li:before{content:" "counter(listitem)" ";white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dd ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li ol>li:first-child:before{content:" ("counter(listitem)" "}

フォークソング

ニューミュージック

職業

シンガーソングライター

ディレクター

音楽プロデューサー

担当楽器ギター
活動期間1973年 -
レーベルワーナーパイオニア、MSM、VAPレコード
事務所ザ・バード・コーポレーション
共同作業者グレープ
ウェス・モンゴメリー

吉田 政美(よしだ まさみ、本名:吉田 正美[1]1952年9月29日 - )は東京都江戸川区新潟県説もあり。)出身のシンガーソングライタープロデューサー、ファンやさだまさしには「まちゃみ」の愛称で親しまれている。
グレープ結成

吉田正美(現・政美)とさだまさしの2人は1969年、当時高校2年生のときに共通の友人の紹介で知り合った。当時さだはアマチュア・バンド「フライング・ファンタジー」のリーダーであり、吉田はアマチュア・バンド「レディ・バーズ」のリーダーであった[2]1970年の春にさだ、吉田ともうひとりのメンバー3人でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(現ヤマハポピュラーソングコンテスト)に応募するが予選落ちしている。吉田とさだはその後も他にメンバーを集めてバンド活動を行っているが、プロになることは考えていなかったという。さだは國學院高等学校を卒業後、國學院大學法学部に入学する。

高校卒業後、吉田は大学に入学するもすぐに退学し、セミ・プロのバンドに入る。キャバレー回りのバンドであったため、さだはこの入団に反対したが、反対を振り切って入団している。さだは吉田がいわゆる音楽極道(ゴロ)になっていくのではないかと心配し留守宅を覗きに行くなどしていた。しかしさだは大学にはほとんど行かず数々のアルバイトをしながらアマチュア・バンド活動の生活を送り、肝炎を患ったことをきっかけに1972年10月初旬長崎に帰郷し大学を中退した。さだが「東京で録音したデモ・テープを長崎に送ってほしい」と吉田に手紙を出したことで、吉田はさだが長崎にいることを知る。吉田はバンド生活に嫌気がさしていたため仕事を無断退職して、失踪状態で長崎にやって来た。そのためさだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て咄嗟に「おい! よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することが出来なくなったという。以後二人は意気投合し同年11月3日フォークデュオを結成する。ただし、実情は「とりあえず」二人だけでやるという結成であった。コンサートの開催を考えコンサートの興業団体に掛け合うが、いずれの団体とも話はつかず、結局はファースト・コンサートを自主開催することとなった。コンサート開催に際してグループ名が必要になったため、吉田が楽譜のトレード・マークにしていた"Grape"でどうかとさだに提案。さだは「ああ、そうしよう」と答え、1分でグループ名が決まったという。後に「グレープ」の名で全国に知られるようになるが、さだはデュオの正式表記は"Grape"であるとしている。

初めてのコンサートを前にグレープは、島原市の著名人でさだの父親の友人でもあった宮崎康平を訪ねた。その際グレープは宮崎に後に、自主制作のEP盤『 GRAPE-1』に収録される歌「恋は馬車に乗って」やデビューアルバム『わすれもの』に収録される歌「蝉時雨」「紫陽花の詩」を披露している。これを聴いた宮崎は「これは面白い。このような歌は今まで聴いたことがない。」と感心し、長崎新聞社の学芸部・宮川密義に紹介する。宮川は二人を面接して歌を聴きヒット性を予見、長崎新聞のヤング欄に写真入りでグレープを紹介した。11月25日に、NBCビデオホールで初めてのコンサートは定員304席のところ250人程度のしか聴衆が集まらず、さだの弟の繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(さだはこのことをして「キャバレー方式」と呼んだ。)。このファースト・コンサートに長崎放送ラジオのディレクターが臨席したことからラジオ出演へとつながる。宮崎康平はグレープを長崎放送テレビにも紹介し、グレープはローカル番組「テレビ・ニュータウン」のレギュラーに起用される。やがて音楽プロデューサー川又明博によってスカウトされ、1973年10月25日、ザ・バードコーポレーションを所属事務所として「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。
人気フォークデュオに

デビュー曲「雪の朝」はまったくヒットせず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったため、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオ深夜番組ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞受賞することとなった

1974年10月25日に3枚目の「追伸」をリリース。4枚目の「ほおずき」を1975年3月25日に発売したが二人が考えていたほどのヒットには至らず、5枚目の「朝刊」を1975年8月25日に発売して暗いイメージの払拭を狙ったが、彼らが考えていたほどのヒットにはならなかった。1975年11月25日に6枚目にしてグレープ名義ではラスト・シングルとなる「無縁坂」をリリースし、「精霊流し」以来の大ヒットとなる。さらに、アルバム『コミュニケーション』に収録された「縁切寺」は収録曲の中でもとりわけ人気を博し、グレープ解散後の1976年8月21日にバンバンがシングルとしてカヴァー・リリースし、ヒットさせている。

今ではフォークデュオとして記憶されているが、後にさだまさしが語るには「ロックをやりたかった」のだと言う。さだのヴァイオリンと吉田のジャズ・ギターを活かしたサウンドを目指していたらしい。確かに無国籍な印象のあるデビュー曲「雪の朝」や「精霊流し」のB面に収録されたフレンチ・ポップス風の「哀しみの白い影」など、いわゆるフォークの枠に収まらない楽曲も多い。また、セカンド・アルバム『せせらぎ』収録の「ラウドネス」や『グレープ・ライブ 三年坂』に収録されている吉田の「バンコ」、さだの「第一印象」[3]といった楽曲は明らかにフォークソングではなく、彼らが本当にやりたかった音楽の片鱗がうかがえる。

さだは後年「男性二人のデュオは当たらないという当時のジンクスを自分たちが打ち破った」と語っている[4]
解散

1975年ごろからさだは激務から再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。吉田は「ノリノリの時期だったために当時のレコード会社からは休息を許されず、グレープの活動を終わりにするしか、さだには休養する手段がなかったんです。これがいちばんの理由[5]」と語っている。また世間的には「精霊流し」のヒットにより、精霊流し=暗い=グレープというイメージがつき、雰囲気を変えるために5枚目のシングルとして「朝刊」をリリースしたが思うようにヒットしなかったこと、続く6枚目のシングル、母の人生の苦労を歌った「無縁坂」がヒット、さらには同時リリースの3枚目のアルバムに収録されている「縁切寺」が好評を博したことなどが重なってしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)を感じるようになった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef