その他の同名の人物については「吉田学 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}本来の表記は「吉田學」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}吉田(よしだ) 學(まなぶ)
[[ファイル:
吉田 学(よしだ まなぶ、1927年〈昭和2年〉2月24日 - 2011年〈平成23年〉6月7日[1])は、日本の海軍軍人、海上保安官、海上自衛官。第15代海上幕僚長。海上自衛隊におけるイージス艦導入を推し進めた人物。 岐阜県出身。旧制恵那中学校から1943年(昭和18年)12月1日、海軍兵学校に第75期生として入校した。入校の動機は零戦のパイロットに憧れたからで兵学校では航空班となる[2]。しかし、終戦により1945年(昭和20年)10月1日、兵学校が閉校となり、最後の卒業生となった[3]。戦後は復員局で海防艦第八十五号に乗組み復員業務に従事し、旧海軍の駆逐艦「榧」を賠償艦としてソ連に引渡すためナホトカまで回航する業務にも従事した[2]。終了後は故郷に帰り大学に進む準備をするつもりであったが、兵学校時代の教官から「いまに海軍ができる。それまでつないでくれるのは75期だ[4]。できたら残ってほしい」と言われ海上保安庁の前身である「不法入国船舶監視本部」に籍を置き、巡視船に乗組む。しかし、兵学校は卒業したが、任官していないため二等海曹(下士官)の待遇であった[2]。1948年(昭和23年)5月、海上保安庁が設置され、海上保安官として第八管区海上保安本部(舞鶴)で勤務した。 1952年(昭和27年)6月、海上警備隊発足により転官した。海上自衛隊では、主に艦艇で勤務し、中央勤務では海幕防衛班長や防衛部長等を務めた。防衛班長時代には周辺海域の海上防衛能力の強化を目指し、全通甲板型のヘリコプター搭載大型護衛艦(DLH)を計画するが、計画は通らなかった[2]。防衛部長の時には米海軍との共同対処能力の向上を目指し、1980年(昭和55年)の環太平洋合同演習(リムパック)に部隊を初参加させることに尽力した[2]。その後、大湊地方総監、海幕副長等の要職を歴任し、第15代海上幕僚長に就任した。
略歴