吉田好雄
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吉田義男」、「吉田義夫」、あるいは「吉田栄夫」とは別人です。

吉田 好雄
1945年
生誕1921年11月24日
広島県広島市
死没 (1976-09-07) 1976年9月7日(54歳没)
広島市
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1939 - 1945年 陸軍航空士官学校第55期生
最終階級大尉
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吉田 好雄(よしだ よしお、1921年大正10年〉11月24日 - 1976年昭和51年〉9月7日)は、大日本帝国陸軍軍人で、戦闘機操縦者(エース・パイロット)。最終階級は大尉広島県広島市生まれ。
経歴

1921年大正10年)、広島市に生まれる。1939年昭和14年)11月、陸軍航空士官学校に入り、1942年(昭和17年)3月に第55期生として卒業し、少尉に任官。明野陸軍飛行学校にて戦技教育(乙種学生教程)を受け、同年10月、満州国杏樹に駐留していた飛行第70戦隊(二式単座戦闘機二型丙装備)へ配属される[1]

1944年(昭和19年)2月、帝都防空のため千葉県松戸飛行場へ移動したが、7月に南満州防空のため鞍山へ転じた。9月8日アメリカ陸軍航空軍第20空軍B-29重爆撃機108機が鞍山へ来襲した際、吉田はうち1機を不確実撃墜して初戦果を上げた[1][2]

同年11月、飛行第70戦隊は帝都防空のため内地へ帰還、千葉県柏飛行場に展開して、B-29迎撃戦に出動した。1945年(昭和20年)2月、吉田中尉は第3中隊長に任命された。吉田は3月10日4月13日4月15日にB-29をそれぞれ1機ずつ撃墜し、5月24日には2機を撃墜、5月25日にさらに1機を撃墜した。吉田大尉の固有機は二式単座戦闘機二型丙で、全面無塗装銀の機体に日付の付いた6個の撃墜マークが描かれていた。夜間の迎撃戦では、照空灯に照らされて蛇行するB-29に50メートルまで肉薄し、40mm自動噴進砲(ホ301)による攻撃が威力を発揮した[2][3]

吉田のB-29撃墜の戦功に対し、8月10日付で第12方面軍司令官田中静壱大将から表彰状と陸軍武功徽章(乙)が授与された。飛行第70戦隊は6月から四式戦闘機への機種改変を開始したが、四式戦による実戦参加の機会はなかった。終戦近くになって、戦隊は当時実験中のロケット戦闘機「秋水」の装備を予定し、吉田も操縦者として陸軍航空審査部で医学検査を受けたが、秋水は配備されないまま終戦を迎えた[1][2][4]

最終撃墜数はB-29を6機撃墜、不確実撃墜1機であった(戦隊第2位)。病気のため1976年(昭和51年)9月7日、郷里の広島市で逝去。享年54。没年月日は長らく不明[3]であったが、広島市の加藤友三郎顕彰会の会報(加藤友三郎通信18、2015年(平成27年)12月15日発行)内の記事で判明した。
脚注^ a b c 秦・伊沢(1984年)、355頁。
^ a b c 押尾、野原(2001年)、211-212頁。
^ a b サカイダ(2000年)、80-81頁。
^ 秦・伊沢(1984年)、190頁。

参考文献

)
秦郁彦(監修)、伊沢保穂(編集) / 航空情報編集部 『日本陸軍戦闘機隊 付・エース列伝』新改訂増補版、酣灯社、1984年。ISBN 978-4873570044

押尾一彦、野原茂 『日本陸海軍航空英雄列伝 大空の戦功者139人の足跡』光人社、2001年。ISBN 978-4769809920

ヘンリー・サカイダ(著)/梅本弘(訳)『日本陸軍航空隊のエース 1937-1945』、大日本絵画、2000年。 ISBN 4-499-22730-5

関連項目

二式単座戦闘機 - 吉田は二型丙のほか、二型乙「11」号機に搭乗していた。

小川誠 - 飛行第70戦隊のトップエース。

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