吉田兼好
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このページのノートに、このページに関する質問があります。(2023年11月)
質問の要約:「卜部兼好が登場する大衆文化作品一覧」記事の必要性について
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「兼好」はこの項目へ転送されています。落語家については「三遊亭兼好」をご覧ください。

 凡例卜部 兼好
吉田 兼好(菊池容斎画『前賢故実』)
時代鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕弘安6年(1283年)頃?
死没文和元年/正平7年(1352年)以後?
別名吉田兼好、兼好法師
官位従五位下左兵衛佐
主君後伏見天皇後二条天皇
氏族卜部宿禰嫡流
父母父:卜部兼顕
兄弟兼好、慈遍、兼雄
妻なし
子なし
特記
事項現在伝わる兼好の系譜は「吉田兼倶による捏造」とする説がある。
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卜部 兼好(うらべ の かねよし / うらべ の けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人随筆家。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者。私家集に『兼好法師家集』。

治部少輔・卜部兼顕の子。卜部兼名の孫。鎌倉および京都に足跡を残す。旧来、吉田神社の神官の家系である吉田流卜部氏の系譜に連なると考えられてきたが、資料の見直しにより、その根拠となる家系図が吉田兼倶による捏造ではないかという見解がある。吉田神社の系譜に連なるという説に基づき江戸時代以降は吉田 兼好(よしだ けんこう)と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)あるいは単に兼好(けんこう)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書では「兼好法師」と表記される。
経歴

国文学者の風巻景次郎の考証(「家司兼好の社会圏」)による、いわゆる通説を述べる。卜部氏古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄であるが、南北朝期に成立した『尊卑分脈』にもとづき、父兼顕は治部少尉で吉田神社の神職であったとされる。母や生年は明らかでないが、一般には弘安6年(1283年)ごろの出生と考えられている。

堀川家家司となり、正安3年(1301年)に後二条天皇即位すると、天皇の生母である西華門院堀川具守の娘であったことから六位蔵人に任じられる。従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、30歳前後に出家遁世するが、その詳細な時期や理由は定かでない。『徒然草』に最初に注目したと言われる正徹の歌論書『正徹物語』以来、後宇多法皇の死を悲しんで発心したとする説もあったが、1324年の法皇崩御のはるか前である1313年ないしそれ以前には遁世していたことが文書から確認されており、後宇多院崩御を契機とする説は現在では否定されている。法名としては、俗名を音読した兼好(けんこう)を名乗った。

出家した後の兼好の生活については修学院比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺われるがあまり明確ではない。鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。その時、現在の神奈川県横浜市金沢区上行寺の境内に庵があったと伝えられる。

南北朝時代には、現在の大阪市阿倍野区にある正圓寺付近に移り住み、清貧自適な暮らしを営んでいたとも伝えられる。正圓寺境内東側に「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が建っている。

二条為世和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。その詠歌は『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』に計18首が収められている。


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