この項目では、ジャーナリストについて記述しています。ミュージシャンの同名の人物については「吉田一郎 (ミュージシャン)」をご覧ください。
別名義が「吉田一郎」の作曲家の「南雲玲生」とは別人です。
日本の政治家吉田 一郎よしだ いちろう
生年月日 (1963-11-03) 1963年11月3日(60歳)
出生地東京都北区
出身校法政大学社会学部応用経済学科卒業
早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際関係学専攻修士課程修了
前職ジャーナリスト
所属政党「無所属・無党派」
称号社会学士(法政大学)
修士(国際関係学・早稲田大学)
公式サイトさいたま市議会議員 吉田一郎
吉田 一郎(よしだ いちろう、1963年11月3日 - )は、日本の政治家、ジャーナリスト。埼玉県さいたま市議会議員(6期)。 東京都北区赤羽生まれ。埼玉県大宮市(現・さいたま市北区)育ち。若竹幼稚園卒園[1]。大宮市立東大成小学校卒業[1]。大宮市立植竹中学校卒業[1]。中学生時代、タモリの「四ヵ国語麻雀」に触発され中国語と韓国語の勉強を始めた。香港映画『Mr.BOO!』を観て香港に興味を持つ[2]。1982年埼玉県立上尾高等学校卒業[1]。 法政大学社会学部応用経済学科に入学。大学在学中の1985年から1987年にかけて、香港中文大学に留学する。アルバイトで日本語学校講師をしながら、九龍城砦で生活した[3]。法政大学卒業後、再び香港に渡り、1988年に週刊『香港ポスト[4]』記者となった[3]。月刊『香港通信[5]』編集長・日刊『香港ビジネスポスト』編集長を歴任。その間フリージャーナリストとしても活動。雑誌『AERA』『SAPIO』等に寄稿。 飛び地マニアとしても知られ[6]、2002年7月には世界中の飛び地に関する情報をまとめたサイト「世界飛び地領土研究会」を立ち上げた[7]。 2001年5月、浦和市・与野市との合併で消滅した大宮市のさいたま市からの独立を掲げさいたま市長選挙に立候補して落選したが、2002年10月、自らの主張を掲げたサイト「大宮市亡命市役所」を立ち上げ[7]、2003年4月のさいたま市議会議員選挙では落選したが、2007年(平成19年)4月8日のさいたま市議会選挙で初当選した[7]。 2015年、政治団体「無所属・無党派」を設立。事実上の代表となる。 2020年11月、さいたま市より市政功労賞(地方自治功労)が贈られることが内示され、12月定例会本会議にて「さいたま市に対する破壊活動を十何年間も続けている人物」と自虐して、自身の贈賞に疑問を呈する質問をする。これに関して、「当該の議員については、議員在任期間が(通算)10年以上であるため表彰対象者として選定した」と副市長が答弁している。しかし、2021年3月22日に正式に表彰されている。
経歴
政歴
2001年(平成13年)5月27日 - さいたま市長選挙(無所属)にて3,377票で落選(8人中7位)。
2003年(平成15年)4月13日 - さいたま市議会議員選挙(北区・無所属)にて2,595票で落選(10人中10位)。
2007年(平成19年)4月8日 - さいたま市議会議員選挙(北区・無所属)にて5,027票で当選(10人中4位)。
2008年(平成20年)8月28日 - さいたま市議会において初めて設置された懲罰特別委員会において、吉田に対する出席停止7日間の懲罰が決定。9月3日の本会議にて可決され、期間中さいたま市役所前で抗議のハンガー・ストライキを行う。
2009年(平成21年)
1月28日 - 再び設置された懲罰特別委員会において、陳謝の懲罰が決定。2回目の懲罰となる。2月3日の本会議にて可決され、翌日の本会議にて陳謝文の朗読を行う。
3月18日 - 三度設置された懲罰特別委員会において、出席停止7日間の懲罰が決定。3回目の懲罰となる。
3月19日 - 無所属議員に本会議での発言権が認められていないことに抗議して、懲罰の本会議での議決を前にさいたま市議会議員を辞職。懲罰は付されない形となる。その直後、自身の辞職によって行われる補欠選挙に立候補を表明。
5月24日 - さいたま市議会議員補欠選挙(北区・無所属)にて27,045票で復帰当選(3人中1位)。
2011年(平成23年)4月10日 - さいたま市議会議員選挙(北区・無所属)にて13,322票で当選(9人中1位)。
2013年(平成25年)
5月5日 - さいたま市長選挙に立候補したことにより、さいたま市議会議員を失職。
5月19日 - さいたま市長選挙(無所属)にて53,513票で落選(4人中3位)。
9月30日 - さいたま市南部都市・公園管理事務所が駒場スタジアムの修繕工事などで、一般競争入札ではなく、随意契約で工事を発注したことで、さいたま市に損害を与えたとして、清水勇人市長を相手取り、約5,300万円の損害賠償請求の訴えをさいたま地方裁判所に起こした[8]。
2015年(平成27年)4月3日 - さいたま市議会議員選挙(北区・政治団体「無所属・無党派」)にて無投票当選。
2018年(平成30年)
2月20日 - 文教委員会において市立中央図書館長の答弁に対して「首つって死ね」と発言(下記参照)。
2月28日 - 四度目の懲罰特別委員会が設置され、自民党系の2市議団からは辞職勧告決議案が提出された。
3月12日 - 懲罰特別委員会において、出席停止2日間の懲罰が決定(会期末が16日に迫っていたことから)。4回目の懲罰となる。3月15日の本会議にて可決され、議決後、議長は「議員に対する市民からの信頼を著しく失墜させた」とコメントした。
3月16日 - 自民党系の2市議団から提出された辞職勧告決議案が一旦撤回されて、市議会全5会派による共同提出議案として再提出。「議員としてあるまじき暴言」・「市議会の品位を著しく汚した」として、賛成多数でさいたま市議会としては初めて辞職勧告決議を可決。
10月19日 - 本会議で、障害者関連の条例の改正案に対する討論で登壇中、吉田と同じ北区選出で車椅子を用いている傳田ひろみ市議に対して「ブルジョア障害者」などと発言(下記参照)。
12月21日 - 本会議で、議員報酬等の引き上げを行う条例の改正案に対する討論で登壇中、「この議案に賛成する議員はペテン師だ」と発言(下記参照)。
2019年(平成31年)4月7日 - さいたま市議会議員選挙(北区・無所属)にて13,074票で当選(10人中1位)。